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お万榎・遊女の松・太神宮(10) [千駄ヶ谷物語]

enokiinari_1.jpg<お万榎> 鳩森八幡神社から南東へ坂を下ると、左側に小さな「榎稲荷」がある。淫祠っぽいのは、以下の〝榎逸話〟に由来かしら。

 昔は瑞円寺の南側「榎坂」に通称「お万榎」あり。二股に分かれた幹元部に穴ありて〝女陰〟。性的信仰になって「内藤新宿」の遊女らが拝みに来たそうな。また仙寿院創建「お万の方」(徳川家康の側室。頼宣、頼房の生母)が、この榎の枝で作った楊枝で歯痛が治ったことから霊木「お万榎」との説もあり。その有難い榎は戦災で焼失。

<遊女の松> 「江戸名所図会」の「寂光院・遊女の松」の文を要約する。寂光院は麹町地獄谷(現・三宅坂辺り)にあったが、御城廊御造営で現・国立競技場の地へ移転。同地は往古の奥州街道にして廣谷の原野で松が鬱蒼として〝霞の松〟と号したが、三代将軍家光が鷹狩の際に同寺で休息。そこに江戸城から飛び去っていた「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て松の枝に止まった。将軍大いに喜んで「遊女の松」と名づけた。

otakanomatu_1.jpg 元禄12年(1699)、日蓮宗の〝不受不施派弾圧〟によって「寂光寺」は天台宗に改め「境妙寺」に変更。前回アップの江戸切絵図に渋谷川対岸に境妙寺あり。大正7年(1918)、競技場造成のため現在の中野区上高田に移転。

 また「遊女の松」は、地名より「霞の松」とも呼ばれて同地に残っていたが、大正8年に二代目の松になって「御鷹の松」と名を改めて競技場代々木門内に移設。昭和39年の東京オリンピックの拡張工事で、現在の競技場と絵画館の間に移設。今は国立競技場建築を見守っている。

<太神宮> 「江戸名所図会」には〝寂光寺と遊女の松〟の奥に「太神宮」が描かれている。同書の説明は、~萬治年間に関東に大疫病が流行し、富士の根方より神送りして此地に祭りぬ。然に其神輿の中に太神宮有り。依て此の地鎮護為同所八幡宮の地に社を建て是を勧請す。

taisingyu_1.jpg 「お万榎」は「榎稲荷」へ。「寂光寺」は「境妙寺」になって中野区上高田へ。「遊女の松」は「御鷹の松」になって絵画館脇にある。では「太神宮」は何処へいったのだろうか。これは明治40年頃の「神社合祀(神社合併政策)」によって、鳩森八幡神社の末社「明神社」として同境内に遷座されている。それぞれ激動の歴史をしっかり生き抜いているから面白い。

 奈良時代からの「神仏習合、別当寺」、江戸時代の「お万榎~淫祠」や「不受不施派弾圧」、明治維新の「神仏分離令、廃仏毀釈」。千駄ヶ谷の寺社調べは、お勉強の宝庫です。

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