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方丈記12:飢餓死4万人余 [鶉衣・方丈記他]

jyokuaku1_1.jpg 「養和2年の大飢餓」の最後文章です。「写経」未経験ですが、くずし字筆写も同じようなものでしょう。昨今の濁悪まみれの内閣、官僚の姿を知るにつけ、心穏やかではありません。筆写で心を落ち着かせています。

 濁悪の世にしも(しも=強意)生れあひて、かかる心うき(心憂し=情けない、好ましくない)わざ(行い、仕業)をなん(強調)見侍き。又あはれなること侍き。さりがたき女男など持たぬ者は、其心ざしまさりて、ふかきはかならず死す(気持ちが優り深き方が必ず先に死す)、そのゆへは、我身をば次になして、男にもあれ女にもあれ、いたはしきおもうかたに、たまたま乞得たる物(食料)を先ゆづるによりてなり。されば父子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立て死にける。父母の命つきてふせるを知らずして、いとけなき子の、その乳房にすひつきつつ、ふせるなども有けり。

 ここでひと息。今の世は政治家、役人、親子、夫婦も〝自分ファースト〟の世でございます。溜息ついて、次を続けます。

 仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数しらず、しぬることをかなしみて、聖をあまたかたらひつつ、其死首のみゆるごとに、阿字を書きて縁をむすばしむるわざをなんせられける。

sonokazu2_1.jpg 岩波文庫版には「聖をあまたかたらひつつ」の文がないが、4万余の死者に一人で対処など不可能ゆえ、聖(ひじり=僧)を動員しての回向と記す江戸本の方がわかり易い。

 其数をしらんとて、四五両月がほど、かぞへたりせれば、京の中、一条より南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東、道の辺にある頭すべて四万二千三百余なん有りける。いはんや、其前後に死ぬるものもおほく、河原・白川・西の京もろもろの辺地などをくはへて、いはば際限も有へからず。いかにいはんや(満む、満ちる)。諸国七道をや、近くは崇徳院の御位のとき、長承の頃かとよ、かかるためしは有けるときけど、其世のありさまは知らず。まのあたりいとめづらかにかなしかりし事也。

 北村優季著では「養和の飢饉」は、内乱激しかった時期で、交通遮断によって京への物流が途絶えたこともあろうと記していた。飢餓、そして疫病の惨状があれば、治安云々もない。京には死体が満ち、強盗、放火、殺人は茶飯事。まさに芥川龍之介『羅生門』の世界。そんな京に今度は大地震が襲います。

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