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〝目玉観音〟こと聖輪寺(11) [千駄ヶ谷物語]

kannondou1_1.jpg 「鳩森八幡神社」から「観音橋」へ向かって坂を下った左側に「聖輪寺(観音寺)」がある。外苑西通りからはラーメン・ホープ軒脇から坂を上って、すぐ右側が同寺。寺の少し手前に坂道が二手に分かれてい、左坂に「観音坂」の史跡柱。「観音坂は如意輪観音像に由来する」と記されている。「江戸名所図会」の「千駄ヶ谷 観音堂」を読んでみよう。

 寂光寺より二町ばかり西北の方にあり。観谷山聖輪寺と号(なづ)くる。真言宗の寺に安置す本尊如意輪観音(腕が六本ある)は当寺開山行基大士の彫像にして御丈三尺五寸あり。世俗目玉の観音と字(あざな)し奉る。往古慶応三年の春、盗賊来り。此本尊の御双眼は精金なりと聞伝へ、鑿とりて去んとせしが、冥罰にやよりけん自ら持る所の刃に貫れて死せり。此地の高橋氏某(それがし)目のあたり是をみて驚歎し堂宇を再興す。此故に里民、目玉の観音と字したてまつるよし。本尊縁起にみゆ菊岡沾涼翁の説に、江戸寺院の中、千有余歳を歴たるものは浅草寺と当寺之といへり。

seirinji_1.jpg 縁起曰(いわく)神亀二年乙丒 行基大士東国遊化の頃、同年初夏に暫く此地に息(いこ)ひ給ふ時に如意輪観音、傍の谷より出現し給ひ、大士に霊尓あり。依て仏意の応じかしこにありし古株を仏材として此本尊を彫刻し奉る、故に観音聖輪の号ありといへり。

 現・聖輪寺は今風建築で、残念ながら浅草寺匹敵の歴史があるとは伺えぬ風情。古地図を見ると、現・外苑西通りは〝観音橋〟で行き止まっている。昭和31年の地図もそうで、現・青山通りへ抜ける外苑西通り(キラー通り)は、前回の東京オリンピック頃の開通か。目下は環状4号線として東京ぐるっと全開通が計画中とか。

 さて、田畑と寺社仏閣が散在した長閑な江戸時代の千駄ヶ谷も、明治に入ると明治神宮、神宮外苑、国立競技場、赤坂御所、新宿御苑の皇室御料地化へと周辺が大激変。千駄ヶ谷にも十万坪敷地を有す徳川宗家・家達邸が誕生します。

 2020年の新国立競技場の千駄ヶ谷、アパレルミニメーカー群居の千駄ヶ谷、連れ込み旅館街の千駄ヶ谷、その前は徳川宗家邸の千駄ヶ谷へ。千駄ヶ谷、面白過ぎです。次回は徳川宗家・家達について。

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