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勝海舟と天璋院とクララ(14) [千駄ヶ谷物語]

15saiiesato_1.jpg 徳川家達についての続きです。徳川宗家となった家達は、駿河府中城主(70万石の殿様)になった。明治元年に〝五稜郭討伐〟を命じられるも幼過ぎて免除されて駿河に戻った。和宮も明治2年に京へ戻った。同年の「版籍奉還」で静岡藩知事。明治4年の「廃藩置県」で東京へ。

 保科著にこう記されていた。「天璋院は千代田城開城後、いったん一橋家に落ち着いたが、築地の一橋下屋敷、青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸(小生自宅前の現・戸山公園)と替わり、(明治5年に)赤坂の福吉町の旧相良越前守邸に移った。ここで静岡から戻った家達と暮すことになる」

 家達は、華族の身分と家禄を得て赤坂暮し。家従6名を残して全免職。樋口著には、同邸購入代金3800両と『勝海舟全集』にありと紹介。小生、この辺は少し詳しい。2011年の弊ブログ「勝海舟旧居巡り」で赤坂氷川町の勝海舟邸を訪ねている。勝は土地売買が自由になった明治5年に、大旗本から2500坪の邸を土地500両、改修500両で終の棲家にした。

 当時の地図もブログアップゆえ、改めて見れば勝が買った柴田邸の北側隣接地が「相良越前守」。元人吉藩主=相良氏ゆえ、ここが家達邸だろう。勝邸と同時期購入で、購入金額も勝が記録ということから、勝の手配と推測して間違いない。

 同屋敷で母代わりの天璋院(篤姫、第13代将軍家定の正室)の他、本寿院m_sibatatei.jpg(家定の実母)、実成院(紀州藩主から14代将軍家茂の実母、和宮の姑)らが家達を迎え育てた。また勝邸敷地内にはホイットニー家も居住。主人ウイリアムは一橋大の前身「商法講習所」から津田仙が設立「銀座簿記夜学校」教師。再来日途中のロンドンで病没し、アンナ夫人が一家を率いて日本に戻った。

 同夫人は49歳で病没。これも「青山外人墓地シリーズ」で、勝の墓誌で眠るアンナ夫人の墓を紹介済。また明治19年、医学を修めた息子が再来日して赤坂病院を開設。娘クララは勝の三男・梅太郎と結婚した。『クララの日記』には明治10年に家達邸に招かれた時のことが記されているそうな。侍のお辞儀で迎えられ、客間はテーブルにブリュッセル絨毯。美しい庭園。老婦人3人が住む家には28人の侍女と~。

 家達はそうした環境で、天璋院の薫風(多分に勝の忠告を受けつつと推測)を受けて勉学。かくして明治10年(1877)に赤坂から千駄ヶ谷へ移住。この時、家達14歳、千駄ヶ谷旧邸で暮す間もなく、イギリス留学へ旅立った。写真は赤坂邸に移った頃だろう幼少・徳川家達(国会図書館「近代日本人の肖像」より)。

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