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徳川家達邸の変遷(15) [千駄ヶ谷物語]

meijitokugawa1_1.jpg 千駄ヶ谷の明治43年地図(上)を見る。徳川邸はJR線路から鳩森八幡神社まで、西は現・国立能楽堂辺り、西は渋谷川(現・外苑西通り)までの広大敷地。保科著には、こう記されていた。

 「(東京体育館)あそこはね、茶畑だったのよ。段々になってね、点々とお百姓さんの家があって。その下の川に観音橋があった。旧邸南が八幡様で、その向こうに南邸、里様(徳川慶喜4男・厚夫人)がいらっしゃった」

 徳川旧邸は「まだ遠慮があって」平屋建ての質素な家屋。天璋院、本寿院、実成院と所帯が多く、継ぎ足しで広がっていたとか。そして大正6年の地図が面白い。徳川邸はふたつ。以下、保科著を要約。

 「元の徳川邸は増築を重ねて住みにくい屋敷だった。大正3年に工事を始め、大正6年末に新邸が落成。敷地は1万数千坪。人造石壁90余間、中央に花崗岩の柱の檜扉の表門。砂利を踏んで中央の植え込みを回って洋館玄関まで約半町。御殿建坪900坪に附属家。庭の一部に総檜白木造り・銅葺の15坪ほどの東照宮(神殿)。江戸城紅葉山にあった家康の等身大木像を安置。以後、毎年正月に旧幕臣と子弟が集い、家康命日の9月17日にも園遊会が開催された」

taisyotokugawa_1.jpg 大正15年(下)地図には縮小された旧邸が認められる。これは明治20年に明治天皇が行幸された際の家を「日香苑」として保存していたもの。大正14年(1925)9月未明の不審火で旧邸母屋焼失。放火犯は翌年逮捕で懲役15年の判決。被差別者らの運動組織・全九州水平社委員長らが「いわれなき差別の原因は徳川幕府の歴史的責任」と主張し、直談判すべくも面会出来ず。抗議文にも未回答ゆえ、同志らがピストル、刀を用意で逮捕。そんな放火背景があったらしい。

 家達一家は旧邸に残された「日香苑」を建て増して仮寓し、西洋館の落成を待ったとか。そして昭和18年(1943)、東京都が紀元2600年事業一つ「武道館」建設敷地として徳川邸に着目。長子・家正との交渉で譲渡が成立。徳川宗家は渋谷区原宿3丁目(東郷神社側)へ移住。

 なお同地譲渡後は戦争で「武道館」建設は中断。戦争中は出征兵宿舎に。戦後は接収されて将校クラブ「マッジ・ホール」になる。同ホールに関しては、赤坂真理『東京プリズン』登場で後述予定。次はイギリス留学から戻った徳川家達について。

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