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方丈記17:歌人・長明の人生 [鶉衣・方丈記他]

kamo.jpg_1.jpg 『方丈記』は第一段が序、第二段が体験した災害の数々、そして第三段が日野山に〝方丈の庵〟を結ぶまで。ここで養和の大飢餓・大地震当時の「歌人・鴨長明」の状況を把握しておきたい。参考は五味文彦『鴨長明伝』。

 養和2年、30歳。大飢餓~大地震の頃に、どんな理由でか祖母の家に住めなくなった。河原近くに十分の一程ほどの家を建てた。同時期の下賀茂社記録には、長明はすでに禰宜継承の流れから外れた下位役職。歌人として生きる他にない。上賀茂神社の歌人・賀茂重保の企画による『月詣和歌集』が養和飢餓の年に成立で、長明の4首が入った。

 その一首が「住み詫びぬいざさはこえむ死出の山 さてだに親のあとをふむやと」。無教養の小生は、分解しないと解釈できない。●住み侘びぬ=生きて行くのが辛い、嫌になった。●いざさは=いざ(さぁ)+さは(然は、そうならば)。●死出の山=死者が越える冥土の山。●さてだに=さて(そのまま、その状況で)+だに(せめて~だけでも)。●やむやと=や(詠嘆)+と(変化の結果)。(父のように、禰宜になる道はすでになく、生きて行くのが嫌になってしまった。そうならば(父のように)死出の山を越えて行こうか~。

 小生、俳句は少し勉強も、和歌への興味希薄。理由は(1)貴族中心。(2)恋歌が多い。(3)歴史的に遡るのはせいぜい江戸まで~等々。自分のことより本題へ戻ろう。

 長明は自分の家を構えると同時に、俊恵(しゅんえ、法師)に師事して本格的な歌の修行に入った。文治3年(1187)院宣(後白河院の命)による藤原俊成の選集『千載和歌集』に一首が入る。「思ひあまりうちぬる宵の幻も 浪路を分けてゆき通ひけり」。恋歌だな。

 琵琶の師・有安は長明に常々こう忠告していたそうな。「所々にへつらひありき、人にならされ」るゆえ〝歌詠み〟になるなと。今流に言えば、狭い貴族の歌人サークルに入れば〝忖度〟する生き方が身についてしまうよ、という忠告だろう。だが長明は『千載和歌集』に載ったことで、琵琶の継承者にならず、歌人の道を選んだ。挿絵は国会図書館デジタルコレクション「肖像」(明治13年刊)より鴨長明の肖像。

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