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徳川家達の業績(16) [千駄ヶ谷物語]

iesatogiin_1.jpg 家達のイギリス留学は、ロンドン郊外の半分私塾のイートン・カレッジ。明治15年(1882)10月、19歳で帰国。帰国翌月、天璋院采配による近衛忠房の長女・泰子と結婚。明治17年、長男・家正誕生。同年の華族令で公爵になる。

 明治20年(1887)秋、明治天皇が徳川家達邸に行幸。皇族や徳川一門、さらに勝海舟、山岡鉄舟、明治政府閣僚らも陪席。行幸の際の建物が「日香苑」として保存。明治23年(1890)、帝国議会開設と同時に貴族院議員(公爵・侯釈は満25歳で貴族院終身議員になる)。

 明治29年(1896)、文部大臣就任を打診されるも〝経験浅く〟と辞退。勝海舟「良い心がけだ」と褒めた。明治31年(1898)、東京市長に勧められるも辞退。勝海舟「そんな事は人に任せなさい」。明治32年、勝海舟没。明治36年12月から昭和8年(1933)まで貴族院議長。

 大正2年(1913)、徳川慶喜没。徳川家の上野寛永寺ではなく、谷中の墓地は神式で正室と多くの子を産んだ側室二人と共に眠っている。家達は常々「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を立てた人」と言っていた。生前の勝海舟は両者にかなり神経を使っていたらしい。

 さて、家達の貴族院議長時代は、激動の時代だった。日露戦争(明治37年)、伊藤博文が中国で暗殺死(同42年)、大逆事件(同43年)、柳田国男「郷土研究」発行(大正2年)、第一次世界大戦(同3年)、関東大震災(同12年)、満州事変(昭和6年)、国連脱退(同8年)~

 家達の働き振りはどうだったか。「政治家にあらずして無色透明。何の政団にも当たり障りなく理想的議長の態度」。貴族院議長として適任だったらしい。各議員の姓名・経歴・性格まで知悉し、かつ勉強家。威厳も身に付けていたらしい。

 かくして大正3年(家達51歳)に、門閥のない中正の人ということで首相に白羽の矢が立つも「その器にあらず」と辞退し、大熊重信内閣が成立。

 相当に〝デキた人物〟と思われるが、そんな人は滅多にいない。家達にも幾つかのスキャンダルがあったらしい。柳田国男との確執、議員会館の給仕との〝鶏姦事件〟、渡欧に〝妾同伴の困ったもんだ事件〟など。その辺は佐野眞一『枢密院議長の日記』にも詳しいとかで、さっそく同書も読んでみた。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より貴族院議長の徳川家達。

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