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徳川家達と柳田国男の確執(17) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0916_1.JPG 徳川家達調べで「柳田国男との確執」なる記述に出会って、ちょっと驚いた。柳田国男と云えば民俗学者で、大著『柳田国男全集』一部を小生も蔵書。

 彼はそもそも農務官僚で、大正3年から退職する大正8年(1919)12月まで徳川家達の下で貴族院書記官長。家達との確執で退職し、それによって偉大な民俗学者誕生、いや日本民俗学が確立とか。

 家達の貴族院議員時代は前述通り、日本激動の明治36年12月~昭和8年。これに重なる柳田国男の書記官長時代を探ってみる。参考は前述の樋口雄彦著に、佐野眞一『枢密院議長の日記』を加える。

 二人が同じ職場になる前の柳田は、明治42年に遠野を含む東北旅行。大正2年に「郷土研究」刊。すでに民俗学に足を踏み込んでいた。本業より民俗学に情熱を注いでいたこと、家達にその理解がなかったこと、はたまた別の問題があったかで、家達は執拗に柳田の転出裏工作を展開したらしい。柳田は面と向かって言わず裏工作の家達に憤慨して、二人の仲はこじれにこじれた。

 家達は旧幕臣官僚に止まらず、裏工作に首相・原敬や西園寺公望まで巻き込んだから、二人の確執は周知の事態になった。結局は家達が柳田に謝罪し、柳田が辞職した。

 樋口著には、ここまで二人の仲がこじれたのには「家達の〝私行〟」ゆえという説、柳田が家達系静岡人らが興した〝報復運動〟へ違和感を持っていたという説も紹介。真相は定かではないも、結果的に二人の確執、柳田の官庁辞職によって「日本民俗学」が確立へ至ったことに間違いはない。

 小生、ここまで調べるまで迂闊にも、柳田国男が〝新宿在住〟とは知らなかった。さっそく市ヶ谷加賀町2-4-13の旧居跡を訪ねてみた。現・大妻女子大加賀寮の地に、岩手県遠野市設置の立派な史跡案内板があった。柳田は同地に明治34年(1901)から27年間在住。『遠野物語』の話者・佐々木喜善が早大在学中で、毎日のように柳田邸を訪れて〝遠野の話〟を語ったゆえ案内板には両者の在住地図が表示、さらには九百九十坪の柳田邸図面、『遠野物語』初版本、若き柳田の写真までが紹介されていた。(写真は同史跡案内板より)

 さて〝家達の私行〟とは何だったのだろう。これが女性問題のみならず、男色(鶏姦)も盛んだったとか。佐野眞一のノンフィクション好きの小生は、佐野眞一著『枢密院議長の日記』を読んでみた。

 メモ:4月10日、新宿でツバメ初認。早かった。桜も葉桜。

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