方丈記18:大原移住の理由 [鶉衣・方丈記他]
長明は河原近くに家を建てると同時に、俊恵に師事して歌の道に精進。師の後継者に認められつつあった。長明没時期に成立と思われる歌論集『無名抄』には、全編に俊恵の教えが記されているとか。
文治3年(1187)、院宣による藤原俊成選集『千載和歌集』に長明の一首が入った。健久2年(1191)の「六条若宮歌会」に出詠。この時、すでに俊恵は亡く、翌年に後白河法皇も没。
政治が鎌倉の将軍頼朝と京・九条兼実の両輪で展開し、九条家が文化拠点になる。建久9年(1197)、後鳥羽院政の開始。翌年に頼朝没。この間に九条家の浮沈あるも、正治2年(1200)になると九条家復活。『石清水若宮歌会』へ長明も復帰。建仁元年(1201)に「和歌所」設置で、毎月の歌会開催。長明は「和歌所の寄人」に選出されてトップランナーへ。
彼は寂蓮や定家にも学び、さらに腕と地位を固めるが、建仁3年(1203)頃から朝廷の歌会活動が消えた。五味著には、この頃に大原隠棲して、建永元年(1206)春頃に出家、ではないかと推測されていた。
大原隠棲は、こんな理由もあってだろうと記す。上皇が長明の「昼夜奉公怠らず」に報い、下鴨社の摂社・河合社で空席になった禰宜(かつて父親がそうだったように)に就かせようとしたが、下鴨の祐兼が猛反対。上皇は、ならば他社を官社に格上げし、その禰宜に就かせようとした。これを長明が辞したことによるだろうと推測。
『方丈記』の ~すべてあらぬ世を念じ過しつゝ、心をやなませることは三十余年なり。其間、折々のたがひめに、をのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかえて、家を出て世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし、身に官禄あらず、何に付てか執(しう)をとゞめん。空しく大原山の雲にいくそばくの春秋をかへぬる。
禰宜になれると喜んだ自分が恥ずかしい、それが叶わず、今度は別社の禰宜の座を~という上皇の心遣いにいたたまれない、という思いがあったのだろうと推測。長明の隠棲については、家長日記の「けちえんなる心」を〝未練で頑なになった心〟と解釈する向きが多いので、小生もこれを辞書で引けば「=掲焉、結縁」両意あり。結縁なる心=仏道に入る縁を結ぶ、の意が正しいのではないかと思った。
隠棲した長明だが『新古今和歌集』に10首が入った。その一首が「秋かぜのいたりいたらぬ袖はあらじ ただわれからの露のゆふくれ」。挿絵は同歌挿入の「新古今集入り肖像画」(国会図書館デジタルコレクションより)。次回から『方丈記』筆写に戻ります。
2018-04-13 07:52
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