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徳川家達の「鶏姦と妾同伴」事件(18) [千駄ヶ谷物語]

rokumeikan.jpg 徳川家達が貴族院議員ならば、佐野眞一著は『枢密院議長の日記』。日記を書くことに生涯を捧げた男・倉富勇三郎。実に297冊の日記帳を遺した。執筆期間は大正8年から昭和19年までの26年間。

 倉富議長は「書いて書いて書きまくった」が、残念ながら判読不能のミミズ文字で解読者なし。佐野眞一はスタッフ5名による読書会を5年間も続けて、やっと大正10年、11年分を解読。その第一級資料の中に「柳田国男との宿縁」と「徳川家達の秘め事」の項あり。家達と柳田国男の確執は前回に記したので、今回は〝秘め事〟のほう~。

 「実名をあげたとびっきりのスキャンダルは、大正十一年二月七日の日記に出てくる。俎上にあがっているのは、公爵にして従一位勲位、貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権大使、日本赤十字社社長などの要職を歴任した徳川宗家十六代当主の徳川家達である」

gicyounonikki_1.jpg こんな書き出しで「宮内大臣・牧野伸顕が倉富にこう語った」と会話文で記されていると紹介。要約すると、徳川は華族会館(元鹿鳴館)に宿泊する多々なり。四五年目前(大正6、7年)のことなりし様なり。会館の給仕を〝鶏姦〟し、其事が度重なって給仕より荒立てられて、一万円を出金して落着したることあり。然るに本人は左程之を悪事と思わず、改むる模様なし。先年、徳川を学習院(男女の)総裁と為すの内儀を定めたる処、松浦某が強硬に反対し〝若し之を遂行するならば鶏姦の事実を訐く〟とまで主張したる為め、終り其儘に為りたりとのことなり。此事は自分より当時の宮内大臣波多野敬直に問ひたるに、〝事実なり〟と云へり。徳川頼輪抔(など)も〝兄は恥を知らずで、今尚公職を執り隠退の考なきには困る〟と云ひたることあり」

 まぁ、家達公はいつどこで、男同士で愛するなんてことを覚えたのでしょうか。それにしても〝鶏姦〟とは凄い言葉です。今でも男好きの男たちは、そんな言葉を使っているのでしょうか。当時の1万円って、1円=2千円とすれば2千万円になるのかなぁ。

 一方、同著では『中央公論』(明治44年4月号)が徳川家達の人物論を特集していて、錚々たる顔ぶれが執筆で「家達はいつも〝威望堂々〟として〝品行厳正〟な人物」という内容だったとフォローされていた。

 樋口雄彦著には宮内省総裁・木戸幸一の日記に「困ったものだ」との記述があると紹介されていた。それは昭和8年から翌年にかけての渡欧に女性を同行したることが新聞沙汰になったとある。前述の牧野伸顕の日記にも「家達公、洋行に妾を携帯したる由に、関係者が徳川家の浮沈に関わるスキャンダルに発展するのではと膝痛して、その女性だけを先に帰国させるようにした」の記述があると紹介されていた。

 他人の日記は怖いですねぇ。そして決して有名人になってはいけません。写真は鶏姦の舞台となった華族会館・元鹿鳴館(国会図書館「写真の中の明治・大正」より)と佐野眞一著『枢密院議長の日記』。

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