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東京大空襲から接収へ(31) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0990_1_1.JPG 久保田二郎、獅子文六が記す千駄ヶ谷も、戦争末期に大空襲に遭う。『東京大空襲~未公開写真は語る』を見ると、昭和19年(1944)11月27日空襲の原宿付近の被災写真が冒頭18頁に渡って掲載。婦人らのバケツリレー(消火作業)の原宿竹下口付近、現・原宿警察署の地にあった「海軍館」(海軍将校会館)破壊写真、瓦礫の中で拝礼する東郷神社神官の姿など。

 昭和20年2月19日には、代々木練兵場の高射砲によってB29が千駄ヶ谷5丁目に墜落の記録がネットにあった。そして3月10日の「下町大空襲」で死者8万余人。秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』第1章が「青山表参道の地獄絵図」。4月13日の「山の手空襲」を記している。渋谷~宮益坂~青山通りは一面焼け野原。「青山墓地に逃げろ」の合言葉も、逃げ切れぬ人々が表参道口の安田銀行(現みずほ銀行)前へ殺到。夜間で鉄扉閉鎖ゆえ焼死体が2階の窓まで重なったとか。著者の被災者取材で「参道はエントツみたいになって熱風が吹き抜けた」「青山通りと表参道の十字路が熱風のつむじ風、竜巻になった」。またネットには表参道口の石灯籠の銀行側は、今も黒ずんでいるとあった。

 3月15日に世田谷、目黒の死者850人。24日に品川、目黒、蒲田の死者559人。そして25日、未だ住宅が残る渋谷、青山、足立、荒川、王子、品川、大森、杉並、世田谷へ約470機のB29無差別爆撃。死者2258人。負傷者約8500人。都内全焼家屋165000戸。

 ここで永井荷風の罹災体験を日記から読み直してみる。3月9日:天候快晴。夜半空襲あり。翌暁4時わが「偏奇館」(麻布市兵衛町の26年間住み慣れた家)焼亡す。10日:代々木の杵屋宅へ行こうと地下鉄・青山一丁目より渋谷駅へ。駅は大混雑ゆえバスで代々木へ。昨夜を振り返って「猛火は殆東京市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、吉原遊郭焼亡。明治座に避難せしもの悉く焼死す」

 4月3日:夜半空襲。淀橋大久保辺火起る。4月13日:夜十時過空襲あり。明治神宮社殿炎上中。新宿大久保角筈の辺一帯火焔。角筈東大久保より戸山が原のあたり一帯に灰となりしが如く。5月25日、風爽やか。夜空襲。焼かれたる戸塚大久保新宿の町々を歩み代々木へ。ここも焼野。

 6月2日:東京脱出。「軍部の横暴なる今更憤慨するの愚の至りなれば(略)われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」。この記述〝荷風らしさ〟として注目です。原爆投下から終戦へ。

 終戦と同時、昭和20年9月8日にGHQが各施設接収。代々木練兵場へ3000名の米兵が一夜にキャンプシティー設置。将校向け接収住宅は港区137戸、渋谷区125戸。次に千駄ヶ谷周辺の接収諸施設を記し、焼け跡にアメリカ文化がいかに浸透したかを振り返ってみる。

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