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獅子文六『娘と私』(30) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0976_1.JPG 久保田二郎の次に獅子文六『娘と私』を読む。獅子文六は明治26年(1893)、横浜生まれ。大正11年(1922)に渡仏。フランス人・マリーと結婚。大正14年に帰国し、同年に長女巴絵(文中・麻理)誕生。昭和5年(1930)に妻マリーが病気になって母国に連れ戻して看病後に帰国。

 『娘と私』は、娘を男親一人で育てる悪戦苦闘から始まる。やがてフランスからマリー病死の報。娘の健康も芳しくない。そうした状況で幾度かの見合い。昭和9年(1934)に富永静子(文中・福永千鶴子)と結婚。新居を千駄ヶ谷に構えた。麻里と久保田二郎は1歳違い。久保田が軍隊コスプレで代々木練兵場を我が物顔で闊歩していて頃に、二人は会っていたかも~。

 その家は、鳩森八幡神社から坂を下った辺り。新妻の郷里女学校時代の同級生の夫が家扶をしている家族一族の持ち家だった。1年間も借り手なく、家賃40円をまけてくれた。場所は八幡社から南へ松岡洋右邸、林銑十郎邸と続いての南側。明大総長で「東京裁判」の弁護団長、「大逆事件」弁護の鵜沢聡明邸の北側。当時の地図を見ると獅子文六宅傍に川が流れ、さらに西側の千駄ヶ谷小の裏にも川が流れている。この2本の川は「原宿村分水」。少学校裏の川幅は5m。大雨で洪水もした。東側の獅子文六宅傍の川幅は3m。両川は神宮前3-28辺りで渋谷川に合流する。

 千駄ヶ谷をこう記していた。「徳川、松平などの大華族が住んでいるかと思うと、青山近くには貧民街があり~(中略)~山の手と下町風の混流がある。祭礼や盆には子供たちが騒ぎ回るのも下町風で~(略)駄菓子屋の問屋があるのも場末の千駄ヶ谷らしく面白い」

 そんな環境で、病弱の麻里も近所の子らと遊び回って元気溌剌。文六も千駄ヶ谷が気に入った。執筆仕事に疲れれば、パリのブーローニュ公園に似た外苑散歩が愉しい。

 「家主の子爵邸を除けば中流以下の小住宅が多い。昔、村落だった名残の近所の榎稲荷。わが家の裏手は広々とした田畑が広がる田舎風で、穀物でも干してないのが不思議なくらい。(中略)妻が鶏を飼って一層、田舎染みさせた」

 久保田二郎著が記す〝高級住宅地〟の実際は、徳川宗家邸周辺のことで、そこから少し離れれば、文六記述が実情、実景だろう。物事は幾作も眼を通さぬと真実に迫れない。そのうちに「地下鉄も開通して、青山まで歩けばその利用もできた」。驚き調べれば、浅草~新橋間開通が昭和9年、新橋~渋谷開通が昭和14年だった。

 昭和11年、麻里が雪の中をランドセルを背負って学校へ(多分、九段の白百合女学校)。ほどなくして戻ってきたので「どうした」と訊けば「悪い兵隊さんがいるので学校がお休み」、二・二九事件だった。

 貧乏文士・獅子文六だったが、次第に執筆仕事が増えて余裕が生まれた。西隣の間数の多い家に移る。そこは家主が自分用に建てた古風家屋。一家の生活も日本風スタイルへ。夕刊紙の連載小説『悦っちゃん』が決まって人気作家へ。麻里も16歳。

 家運は上昇も、時代は厳しくなった。支那事変で青山連隊の入営者激増。そして太平洋戦争へ。隣組、防空演習も活発化。神信心ない文六も、鳩森八幡神社で祈願する。「ぜひ日本を勝たして下さい」。文六50歳。娘18歳。そして姉の死。一家は亡姉が残した中野玄町へ移転すべく千駄ヶ谷を去った。

 なお文六57歳の時(昭和25年)、妻・静子が44歳で病死。翌年に三人目の妻に18歳年下で子爵・吉川重吉の娘・幸子を迎えた。幸子の姉(妹ではなく、たぶん姉)は「原田日記」の原田熊雄の妻。次回は千駄ヶ谷周辺を襲った東京大空襲について。

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