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戦前は高級住宅地:久保田二郎編(29) [千駄ヶ谷物語]

kubotajiro_1.jpg 千駄ヶ谷は、小生が学生の頃は〝連れ込み旅館街〟だったが、戦前までは〝高級住宅地〟だったらしい。その頃の千駄ヶ谷を描いた久保田二郎著『極楽島ただいま満員』と獅子文六著『娘と私』を読んでみる。

 まず久保田二郎著の同書は新宿図書館になく、都中央図書館は「多摩・都立収蔵庫」に1冊のみ。ここは頭の使い様、各区図書館の蔵書検索をすれば、文京区「水道端図書館」にあった。自転車で江戸川橋から石切橋へ。小日向の巻石通りを夏目漱石家の菩提寺・本法寺の前。静かで広い閲覧室で頁をひもといた。

 久保田二郎は大正15年(1926)生まれ。ドラムスで「レッド・ハット・ボーイズ」「グラマシー・シックス」参加後にジャズ評論家。「スイングジャーナル」編集長時代に、植草甚一を発掘。確かMJQを紹介した人じゃなかったか。小生最初の購入レコードが「MJQ/JANGO」だった。

 同書最初の章は「史上最大の兵隊ごっこ」で、当時の千駄ヶ谷を詳しく紹介。こう始まる。「僕の本籍地は東京都渋谷区千駄ヶ谷三丁目五二七番地だ」。少年時代ということは、昭和10年代初頭だろう。当時の地図を見れば、鳩森八幡神社に隣接の南西部一画(「徳川家達邸の変遷(15)」にアップの地図で同番地が確認出来る。久保田金四郎宅。『千駄ヶ谷昔話』には代議士で、白壁をめぐらせた大きな屋敷とあった) 

 「昭和20年5月の空襲で焼けたが、その家は五稜郭の戦いで有名は榎本武揚の屋敷だった」で、ちょっと驚いた。榎本武揚は五稜郭の戦い後に明治政府に仕えて逓信、外務、文部、農商務大臣を歴任する子爵になっている。大臣時代の屋敷だろう。

 「部屋数30ほど、かくれんぼをすれば女中五人、書生、運転手など総勢8、9名で家中を探しても見つからぬ広さ」で、久保田家も相当に裕福。それでいて大逆事件の幸徳秋水の弟子だったとも記していた。(久保田金四郎、そして榎本武揚についても、いずれ調べることになりそうですが、話を勧めます)

 続いて周辺の屋敷群を紹介。省略引用すると~「千駄ヶ谷駅は今でも同じ。左に東京都体育館で、ここは徳川宗家・家達公爵邸。道路を隔てた前が幣原喜重郎男爵邸(戦争放棄の第九条を決めた。似顔絵付き記事をリンクしておきます)」。さらに屋敷紹介が続く。

 「その裏手、今の津田スクール・オブ・ヴジネス辺りが鷹司公爵家。僕の家の横手が〝原田日記〟で有名な原田熊男男爵家、その先が現皇后陛下の親戚、二荒伯爵家、僕んちの裏手が京都の公家・若王子子爵家、その先が松岡外務大臣、その先が総理大臣もやった陸軍大将・林銑十郎邸~」。おや「東京裁判」がらみの人が多いようでございます。

 「当時の千駄ヶ谷に比すれば自由が丘、田園調布、成城なんぞ二流、三流のたかだか文化住宅地に過ぎず」とまで記していた。そんな時分の子供らの遊びは、軍隊コスプレで代々木練兵場の闊歩。親たちが大将、中将、公爵、侯爵らで、兵隊たちも手が出せずで我が物顔で遊んでいたらしい。

 同書は昭和51年(1976)刊で、表紙イラストは植草甚一。次に獅子文六の小説『娘と私』を読んでみる。

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