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外苑競技場で学徒出陣(28) [千駄ヶ谷物語]

kyougijyoreki2_1.jpg 昭和18年(1943)10月2日、勅令で在学徴集臨時特例が公布。全国の大学・高等学校、専門学校の文科系学生・生徒に許されていた徴兵猶予廃止で、同年12月に「学徒出陣」。それに先立つ10月21日、東京周辺77校参加の出陣学徒壮行会が「明治神宮外苑競技場」で行われた。

 髯と眼鏡の独裁者よろしく「その若き肉体、清新なる血潮、すべてこれ御国の大御宝なのである。そのいっさいを大君の御為に捧げ奉るは~」と高みから、死んで来いと叱咤激励するのは(半藤一利『歴史と戦争』より)〝夜郎自大〟の東条英機内閣総理大臣兼陸軍大臣だった(半藤一利『「東京裁判」を読む』より)。

 その2年前から大学繰上げ卒業での入隊も多く、それは特別操縦見習士官制度で応募すれば曹長(見習い士官。陸軍応募1万人、海軍応募5万人)になれるもので、「学徒出陣」は二等兵から。その徴兵検査は10月25日~11月5日。本籍地で身体検査ゆえに、上京組は帰郷して家族に会った。入隊者は推定5万人。

 東京本籍で陸軍入隊者は約2百人。品川から学徒列車で門司へ。釜山から極寒の会寧へ。古兵のイジメと寒さに耐えて2ヶ月で1等兵、上等兵へ。幹部候補生試験の合格者は、下士官教育で内地に戻ったらしい。海軍入隊者は、2等水兵で体罰に耐えつつも知的新兵で飛行科、兵科、主計課へ。

 戦前のジャズ史『ジャズで踊って』著者・瀬川昌久は帝大法学部政治科入学と同時に学徒出陣の第2陣で「後楽園球場」で壮行会。築地の海軍経理学校の半年後に、奈良県橿原に配属されて終戦。GHQ命令の海外日本将兵の復員作業に志願して、主計科士官として氷川丸に乗り込んだ。数千名の帰還作業に従事したが、数名のMPが乗り込んでいて、携帯ラジオから終日WVTRから流れるジャズを聴いていたと記していた。

 明治神宮外苑競技場は、終戦と同時に接収されて「ナイル・キニック・スタジアム」(千駄ヶ谷周辺のGHQ接収については後述)。なお平成5年に学徒出陣50周年に「出陣学徒壮行の地」碑が、旧国立陸上競技場・千駄ヶ谷入口に建てられたが、現在の工事で目下は「秩父宮ラグビー場」に移転中とか。門の外から覗いたが、どこに仮設置されているかわからなかった。次回は戦前の良き千駄ヶ谷時代を記した「スィングジャーナル」元編集長の久保田二郎著を読む。

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