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マッジ・ホールと津田塾(35) [千駄ヶ谷物語]

tudajyuku_1.jpg 赤坂真理は千駄ヶ谷をこう記していた。「千駄ヶ谷は昔を歩いているような気分になる町だ。都心に近い山の手なのに、エアポケットのように昔の風情が残っている」。獅子文六も同じような文章を残している。

 『東京プリズン』の主人公マリは、母が千駄ヶ谷へ通ったワケを電話で問う。以下、会話文を要約する。母「津田で速記を習っていて、近くにマッジ・ホールというのがあったのよ。たぶん進駐軍の施設で」「どういうスペル?」「MUDGE」「ワシントンハイツみたいなところ?」「あぁいうのじゃないの。住居ではなく将校が集まるようなところ。たぶん、もとは個人の邸宅」「どんなどころ?」「洋館なの。入ると絨毯が敷いてあって~。そこは今、東京体育館があって、昔はその通り沿いに、出入りの商屋みたいのが並んでいた。あと鳶とかの職人、井戸掘り屋とかがあって。そこは高台だから、自然に坂になってるでしょ。下がると川があって観音橋があった。川のそばには貧しい集落もあった」

 マリの母は日本女子大英文科で、千駄ヶ谷の津田で速記を習った。その縁から「マッジ・ホール」に出入りして「東京裁判」の下訳をするように至る。千駄ヶ谷駅前の津田塾概要も知っておこう。

 Webサイト「津田塾大学」を見る。明治33年(1900)、津田梅子が私塾「女子英学塾」を生徒10名で麹町1番地に開校。明治36年、元園町を経て5番町へ移転。昭和6年(1931)に小平市に新校舎。昭和23年(1948)、津田塾大設立。千駄ヶ谷が出て来ないので、次に「津田塾大学同窓会」のサイトを見る。

 昭和21年(1946)「津田英語会」規模拡大のため、千駄ヶ谷の鷹司侯爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成。昭和23年「津田スクール・オヴ・ビジネス」各種学校認可。昭和24年、津田英語会拡大のために千駄ヶ谷の土地1613坪を購入。昭和26年、津田英語会鉄筋コンクリート校舎落成。昭和63年(1988)(財)津田塾会「津田ホール」建設。

 鷹司公爵邸跡を借り、木造300坪の校舎落成の〝裏〟を読む。確か徳川家達の実母は津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子は従兄妹。そして鷹司信輔の妻・綏子は、徳川家達の次女ではなかったか。この地は元・徳川家達敷地ゆえ、綏子から鷹司家へ渡ったものと推測してみたが、いかがだろうか。

 さて、クラシックの殿堂と称された「津田ホール」(写真)は今はない。小生の千駄ヶ谷散歩が最後の姿で、現在は工事癖に囲まれて解体~津田塾大の千駄ヶ谷キャンパスの教学施設になるらしい。ちなみに同ホールは槙文彦設計で、槙は数年後に現・東京体育館を設計。

 千駄ヶ谷は江戸の寺院を残しつつ明治維新、明治神宮出現、戦前から戦後へと様々に変貌を遂げ、今また国立競技場、津田ホールが姿を変えつつある。渋谷川は暗渠になったが、町の様相は〝ゆく河の流れは絶えずして~〟です。(※後に大庭みな子著『津田梅子』を読んだので、機会があれば興味深い幾つかの同大エピソードを記したい)。

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