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米兵の性が巷に拡散(45) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1074_1.JPG 秋尾沙戸子『ワシントンハイツ』に、昭和28年(1953)の「時事新報」記事が紹介されていた。

 「代々木署では20日午前6時、警視庁保安課の協力で渋谷区代々木山谷125ホテル・パリーこと〇〇(31)宅を急襲、住所不定無職〇〇(20)ら16名を売春現行で、〇〇を場所提供の疑いで検挙した。調べによれば同ホテルは1ヶ月ほど前から新築開業し、19の豪華な部屋をもち駐留軍相手の連れ込み専門で外部から室内のみだらな行為が丸見えなので、地元PTAなどから非難があがっていた」(同書は実名)

 同番地は新宿南口「文化服装学院」の裏側。「代々木小学校」(平成27年閉校)から西南側裏を流れる「原宿村分水」越しに見えたホテル窓の痴態と想像した。同地区には「山谷小学校」もある。年代から朝鮮戦争(昭和25年~28年・1953)帰りの帰還兵の〝性〟と推測した。

 小生は昨年、岸田劉生「切通之写生」現場と旧居巡りで、同地域をポタリングした。劉生は新婚所帯の妻実家・西大久保(新宿・鬼王神社辺り)から、代々木山谷117番(検挙ホテルは125番地)へ移転。大正4年頃に有名な「切通之写生」など一連の〝赤土風景〟を描いた。つまり郊外から振興住宅地化へ関東ローム層掘り起こしの工事現場風景。急速に都市化される様相が描かれたことになる。

 大正前、明治時代の同地区は畑の中にぽつんぽつんと一軒家。明治39年に田山花袋が移転してきて、終焉の地とした。当時は「文章世界」編集主任。激務後に閑静な自宅に戻って『蒲団』や東京変遷の様子を記録した『東京三十年』などを執筆。昭和5年没だが、その後の代々木山谷に米兵相手の連れ込みホテルが建ち始めるとは想像も出来なっただろう。

 また「山谷小学校」近くには日本画の菱田春草、「春の小川」作詞の高野辰之も在住。西参道の向こう側(現・代々木4丁目)には散歩の達人・川本三郎が生まれている。1歳の時に内務官僚の父が広島赴任中に原爆で死亡。川本は杉並育ちになった。

 米兵らの〝性〟はさらに拡大浸食。秋尾著には「代々木基地反対住民運動」詳細も記されていた。反対運動参加者の声として「山谷はかつて陸軍将校の屋敷町でした(ワシントンハイツ前の代々木練兵場関係だろう)。文士も画家も住んでいた(前述通り)。山谷小学校は〝山の手の学習院〟とまで言われ、PTAや卒業生には社会意識の高い方が多かった。代々木基地反対運動を始めたのも、そうした山谷の婦人会の皆さんです」。

 上記説明の手描き地図を描いたが、文字が小さ過ぎた。クリックして下さい。次は「代々木基地反対運動」とは~。

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