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軽い気持ちで始めたが~(58) [千駄ヶ谷物語]

kokuritusaisyo_1.jpg 家から「新宿伊勢丹」往復約4千歩のウォーキング。某日、伊勢丹を越えて北参道を左折。右を見れば「国立能楽堂」で、そこを越えたら「東京体育館」、眼前に建設中「国立競技場」があった。「鳩森八幡神社」やお寺も散在で下町風情もあり。

 初めて迷い込んだ千駄ヶ谷。興味を抱き、図書館で千駄ヶ谷関連書を探すもナシ。地域本の幾冊かに数頁紹介程度。ならば自分で調べてみましょ、と始めた「千駄ヶ谷シリーズ」です。

 まずは「江戸名所図会」「絵本江戸土産」から。徳川は慶喜で終わり思っていたら、徳川宗家を継いだ家達が、千駄ヶ谷の広大な地を所有。家達に勝海舟、天璋院(篤姫)、さらには柳田国男も絡んでいた。与謝野晶子・寛夫妻が渋谷から越してきた。彼らが去ると北原白秋が来て、隣の人妻との姦通罪で囚人馬車へ。

 ジャズ評論家・久保田二郎が「当時の千駄ヶ谷は高級住宅地。自由が丘や田園調布なんぞは二流、三流の住宅地」と記し、子供時分の思い出を書いていた。獅子文六も戦前の千駄ヶ谷暮しを小説にしていた。富国強兵の無理・破綻。外苑競技場で学徒出陣壮行会。大空襲で焼け野原になった。

kokutitux_1.jpg 終戦同時にGHQが外苑接収。家達邸は将校クラブ。すると母親が同邸出入りで東京裁判下訳をしていたという小説『東京プリズン』に出会った。千駄ヶ谷の邸宅調べをすれば、東京裁判関係者多し。「原田日記」の原田熊雄も住んでいて、改めて「東京裁判」関連書を読むに至る。

 与謝野夫妻の千駄ヶ谷時代の思い出を記した長男・光氏が、後に米軍将校用・白人用・黒人用の性処理場選定と性病予防にあたっていたで、腰抜かすほど驚いた。「ワシントンハイツ」の影響を探れば、そこから青山・原宿がファッションの街になる発端も伺え、一方、千駄ヶ谷は〝連れ込み旅館街〟になった。

 ブランド、ファッションの時代になると、千駄ヶ谷は「裏・青山原宿」的地域特性を有し、軽佻浮薄のブランド青年・田中康夫が千駄ヶ谷辺りを舞台にした小説を書いた。

 千駄ヶ谷に立ち、周囲を見渡せば、南にファッションの青山。原宿は今や外国・地方観光客の街になり、北の信濃町は創価学会の街と化し、北参道に神社本庁(日本会議)、そして共産党本部。かくして半年間も千駄ヶ谷で遊んでしまった。

 国立競技場も小生が初めて迷い込んだ時の状態(写真上)から、今は骨格完成(写真下)。今後は木で被う工事になるのでしょう。2020年オリンピックまで同地区への関心は続きましょうし、小生にもまだ興味あるテーマがありそうも、ひとまずお休みです。次回は参考資料一覧です。

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