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22歳下の嫁と琴瑟相和なれど(4) [貝原益軒「養生訓」]

toukenfujin.jpg_1.jpg 明暦3年(1657)、28歳。京都留学の命(以後、7年間にわたって藩費で留学)。まず京で儒教・朱子学の著名先輩ら、特に「木下順庵」と相往来。次第に『小学』『大学』などを講じるようになる。学業精進で20石へ。

 31歳、藩命で江戸へ。4ヶ月間、藩邸で儒学を講じる。帰藩命令で5年振りの福岡。33歳、30石6人扶持。9月に藩主・光之の参府に従う。京都で『論語』『中庸』『孟子』などを講じて聴講者多数。儒者の地位を確立。寛文4年(1664)、35歳で帰郷し、藩主から邸宅を与えられ、加えて知行地、150石を賜る。

 寛文5年、36歳、再び京へ。さらに学者らと交流を広げ、この頃から朱子学一途。また島原の遊郭・小紫と遊ぶなど京の風流も楽しむ。同年、父・寛斎死去(69歳)。

 寛文7年、38歳。体調を崩す。疝気、疝淋(淋病?ではなく尿路胆石?)、排瀉、秘結(便秘)など。寛文8年、39歳。福岡藩の支藩、秋月藩士の娘・初子(17歳。親子ほどの年の差。後の東軒夫人)と結婚。益軒の指導よろしく和歌、箏、古琴、楷書も巧み。

 益軒は再び蓄髪して加増50石で計200石。荒津東浜に邸宅を賜った。翌年、藩主が綱政の代になって俸禄300石。中級武士の生活になる。益軒と若妻は共に箏、琵琶などの古楽合奏など琴瑟相和なれど、子供が出来ぬ。子が出来なければ離縁もあろうが、益軒さんはなんと、1年に1人ずつ、3年で計3人の側室(妾)とセッセと交接に励むも、遂に子は出来なかった。この頃に『近思録備考』『小学句読備考』『朱子文範』などを刊。

 益軒、東軒夫人共に「蒲柳の質」。益軒は病弱な伴侶の健康維持にも取り組んだ。ちなみに益軒54歳の時に52.5kgで、32歳の東軒は35.2kg。(82歳の益軒は47.1kgで、60歳の東軒は32.8kg)。益軒は「痩せ気味」で、夫人は「激痩せ」体型。(二人は生涯で5回ほどの体重測定記録を残しているとか)

 カットは明治35年刊『近代立志伝・貝原益軒』で紹介の東軒夫人。説明文「東軒夫人は益軒の事業を助け、和歌を作り隷書を書くのも上手で、当時の文学界に名高いものであった」。

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