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壮年期に健脚を発揮(5) [貝原益軒「養生訓」]

furokukan1.jpg_1.jpg 寛文11年(1671)42歳。藩庁で渾天儀(中国製天文観測機)を説明。『黒田家譜』編纂に着手(6年を経て12巻完成。50両を賜る)。延宝4年(1676)47歳。珍書購入命で長崎へ。この頃から中国・朝鮮の漂流船に筆談調査して、長崎に送り届ける仕事を60歳まで続けたとか。

 延宝7年(1679)50歳、肥後杖立温泉に逗留で『杖植紀行』刊。延宝8年(1680)51歳で大阪、奈良、吉野山に遊ぶ。大和の郡山から有馬温泉へ。武庫山に登って大阪へ。『畿内吟行』『京畿紀行』『大和河内路記』を刊。旅から帰ると福岡藩は疫病・飢饉。知行所で「一人の餓死せしむる事なかれ」で困窮農民に寄金。天和2年(1682)53歳。藩命で藍島に朝鮮通信使を迎えて筆談の大役を果たす。

 益軒、気付けば福岡から京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回。日光東照宮や足利学校も訪ねている。ひ弱だった少年が、中年になって驚くほどの健脚を発揮。その際に自身と同行者(使用人)の「歩幅×歩数=行程距離」も算出。後、60歳になって「算を知らざるは万の事、疎かにて拙し」で『和漢名数』(元禄2年)、『続和漢名数』(元禄8年)も刊。

 まさに福岡の伊能忠敬。いや、歩く儒学者・益軒。去来の父・向井元升とも親交ありゆえ、松尾芭蕉にも会っていたかもです。旅仕度を記した『旅装記』も刊。夫人同伴旅行も元禄4年(1691)に大阪・京都へ。元禄11年(1698)には有馬へ熟年温泉旅行。84歳の『諸州巡覧記』まで計13の旅行記を刊。

 これら多数の和文紀行記は、当時の活発な出版事情も反映。ちなみに井原西鶴『好色一代男』は天和2年(1682)で、上方文化成熟で木版製版が普及。加えて伊勢参りなどの旅行熱も反映していたらしい。

 ここで貝原家について。11歳上の長男・家持は、壮年になって浪人。遠賀郡で商人になって高利貸しもして裕福になるも、役人の悪口に反論。傲慢無礼で古希の身で禁固刑中に没(71歳没)。次男・元端(存斎)は京都・江戸に留学後に出仕も、後に身体の不自由から致仕。遠賀郡吉田村で農業と寺小屋で生計も、晩年になって身体を壊した。親子共々益軒が自宅に迎え養った。元端は74歳で没。5歳年長の三男・義質(楽軒)は浦奉行を務めた後に致仕。その後は学問に精進。78歳で没。

 兄弟全員が長寿だった(徳川の15代将軍平均寿命は51歳とか)。子のない益軒は、元禄8年、66歳で楽軒の次男・好古(恥軒)を養嗣子に迎えるも、益軒69歳で東軒と京・大和旅行中に出奔。次に存斎の次男・重春を迎えるが身持ち悪く、それでも益軒81歳で孫が誕生。そういえば司馬江漢も娘婿がままならず苦労していた。カットは79歳で完成『大和本草』16巻(国会図書館デジタルコレクションより)。

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