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「洋行組」が多かった邸宅主(追加メモ2) [千駄ヶ谷物語]

 千駄ヶ谷の邸宅調べをすると「洋行組」が多いの気付いた。すでに紹介済人物が多いので、以下に洋行記録だけを一覧してみた。

<榎本武揚> 鳩森八幡神社隣接のジャズ評論家・久保田二郎(父・金四郎)邸の前住者が榎本武揚。文久2年(1862)品川発。翌年オランダで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学び、慶応2年(1866)に竣工の「開陽丸」で帰国。「五稜郭」の戦い後に明治政府の逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任。子爵になった。

<團琢磨> 千駄ヶ谷小学校の南側に團邸があった。明治4年(1871)岩倉使節団に同行して渡米。マサチューセッツ工科大・鉱山学科を卒業して明治11年(1878)に帰国。息子は團伊玖磨。

<津田初子> 津田塾本校は小平だが、千駄ヶ谷駅前に津田塾・千駄ヶ谷キャンパスがあるので一覧に加える。津田梅子は、上記の岩倉使節団に随行した女子留学生(最年少の満6歳)として渡米。私立女学校アーチャー・インスティチュートを卒業した明治15年(在米11年)に帰国。帰国後に幾度も徳川宗家・家達を訪ねている。

<徳川家達> 千駄ヶ谷に広大地を有した徳川宗家・家達は、明治10年(1877)、イギリスのイートンカレッジ留学。明治15年(1896)に帰国。

<幣原喜重郎> 徳川家達邸の前。明治29年(1896)に外務省入省。ロンドン、ベルギー、オランダ、ワシントンの領事館や大使館に勤務。大正4年(1915)に外務次官。同8年に駐アメリカ特命全権大使他。軍部に反する平和外交に務めた。第44代内閣総理大臣。原爆なる恐ろしい爆弾が出来た時代に戦争などしてはいかんと平和憲法(戦争放棄)を誕生させた。

<松岡洋右> 鳩森八幡神社の南側に邸あり。明治26年(1880)に渡米。ポートランド、オークランドで勉学後に、オレゴン大学法学部入学。明治33年(1900)卒業。明治35年(1902)、9年ぶりに帰国。

<獅子文六> 千駄ヶ谷小学校の東側。大正11年~14年(1922~1924)にフランス新劇を鑑賞・研究で滞在。フランス人の妻を娶り、ハーフのお嬢さんと千駄ヶ谷生活。

<鷹司信輔> 現・津田塾千駄ヶ谷キャンパスの地が鷹司地所。元・明治神宮内苑宮司。大正13年(1924)、ベルギーで開催の万国議員商事会議参列で渡欧し、1年半ヨーロッパ各国を視察。

<原田熊雄> 久保田二郎邸の横。母がドイツ・日本のハーフ。大正11年(1921)頃に宮内省嘱託としてヨーロッパ見聞。東京裁判の『黒田日記』で有名。

<永井柳太郎> 江利チエミ邸と明治通りの間に邸あり。後の鉄道大臣、逓信大臣、拓務大臣。明治39~42年(1906~1909)にオックスフォード大に留学。

 以上簡単調べですが、元・千駄ヶ谷の邸宅主には、かくも「洋行帰り」が多かったというお話。これほど「洋行組」が固まって住んでいた街は他にないでしょう。(丁寧に調べれば、他にも洋行組がいたかもしれません)

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