儒者の墓(4)「史蹟大塚先儒墓所沿革」 [朱子学・儒教系]
共に発行は、大正10年に国史蹟指定で、翌11年(1922)に東京市が管理者に指定された頃と思われる。『史蹟大塚先儒墓所沿革』はネット未公開だろうゆえ、原文で紹介。
初め水戸藩の儒者、人見道生その私邸を埋葬地とす。次で享保十九年室鳩巣、駿河臺の賜邸に没するや、遺志に従ひ此地に葬る。寛政年中柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲連署し當地に儒葬の儀伺書を差出し、許可を得て葬地となせり。
斯の如く由緒深き先儒墳墓も、明治維新後子孫世變に遇ひて家門衰ふるあり、或は他に移れるあり、為に漸く荒廃し、都下西郊の一名蹟も將に煙滅に帰せんとせり。
明治三十年頃、帝国大學文科大學長外山正一同教授島田重禮氏等荒廃を慨し、之が保存を考究せしも、事成らずして両氏共に歿す。明治三十四年、東京帝國大學總長濱尾新氏深く之れを惜しみ、二氏の遺志を継ぎて、大塚先儒墓所保存會を組織す。大正二年男爵濱尾新氏より、宮内大臣に大塚先儒墓所保存會組織の事を申陳し金千圓を御下賜の御沙汰書を賜ふ。
同四年五月、維持資金二千圓を添へ、之を東京市に寄附し以て、永久維持保存せらるゝに至れり。大正五月十二月二十四日保存會に於て祭典を修し、報告を為す。大正十年三月一日史蹟名勝天然記念物保存法に依り、史蹟として指定せられ、次で同十一月、内務大臣より本市に其管理者に指定せらる。
同年春、市に於て参拝道路を新設し、植込みをなし庭園風とせしも、墳墓は總て奮位置に存し、只其區劃と風致とは大いに面目を改むるに至れり。
なお、国会図書館デジタルコレクションで大正5年刊『岡田寒泉伝』(重田定一著)を見ると、当時の「小石川地籍絵図」が掲載。そこから推察すれば、当初は儒者各々が同地域に墓地を購ったらしく「岡田氏墓56坪+山林70坪=計126坪」の記入。その先が山林で、その奥に室氏墓、柴野墓などが認められる。上記沿革以前の状態が記録されていた。長くなったので、ここで区切る。(続く)
2018-11-12 07:18
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