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儒者の墓(3)大塚先儒墓所とは [朱子学・儒教系]

ohtukaryakuzu_1.jpg 江戸時代は「檀家制度」で寺に埋葬が規則ゆえ、儒教者らは「林氏墓所」のように拝領地片隅に埋葬。明暦2年(1656)、林羅山は別邸・上野忍ヶ岡で夫人の儒葬を行った。その14年後、寛文10年(1670)に林羅山の門人・人見道生(水戸藩初代儒者)が自身の邸内(現・大塚5丁目)で儒葬された。これを機に同地は林氏外の錚々たる儒者らの墓所「大塚先儒墓所」になった。

 同墓所沿革については後述するが、儒葬は神道や仏教のような葬儀を行わずに遺体埋葬が主で、近辺の人々は同地を「儒者捨場」と言ったそうな。荒廃した同墓所が明治後期の保存運動で整備され、大正10年に史蹟指定。(隣接の天皇皇后を除く皇室専用墓所=豊島岡御陵は明治6年から)

ohtukaenkaku_1.jpg 永井荷風が「大塚先儒墓所」を訪ねて「日乗」に記したのは昭和12年3月26日。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町〝先儒捨場〟を見る。往年荒涼たりしさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鐵の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に桜を植えたるなど殊に不愉快なり」。(川村三郎『荷風と東京』では〝儒者捨場〟掃苔を見落としている)

 荷風さん、日頃から江戸風情が次々に西洋化される様へ苦言を呈しており、同墓所も整備改修されて日比谷公園のようになるのを危惧したのだろうが、実際は逆で今も人知れずひっそりと在る。または「寛政の改革」で弾圧された戯作者らが好きだった荷風さんのこと、松平定信配下の儒者らが嫌いだったとも考えられる。

 小生、フリーランサーになった20代半ばから同墓所至近の大塚3丁目交差点際の写植屋さん(活字とDTPの間)を懇意にして何年も通っていたが、迂闊にもその〝坂下〟に「大塚先儒墓所」があるとは気付かなかった。

 同墓所を訪ねるネット記事を拝見すると「墓石の後ろにミニストーンサークルのような丸い石が~」などと記す例もあるが、とんでもない。それは墳墓(土饅頭)を囲む石ではなかろうか?

 さて、同墓所を訪ねたくも天候芳しくなく、その前に有栖川公園の都中央図書館(地元・文京区図書館に蔵書なし)で『史蹟大塚先儒墓所沿革』(東京市役所発行)と『大塚先儒墓所保存会報告書』(共に東京市が管理者に指定された大正11年頃の発行)を閲覧することにした。

 そこで小生、思わず膝を打った。『保存会報告書』の墓所略図にはちゃんと墓石後ろに各墳墓が描かれ(クリック拡大で確認を)、さらに口絵写真にも芝で覆われた墳墓がしっかりと写っていたじゃないか。我が推測通りなり。写真は「報告書」の墓所略図と「沿革」チラシの表紙。(続く)

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