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儒者の墓(2)林氏墓地へ [朱子学・儒教系]

hayasisibosyo_1.jpg 「林氏墓地」場所は市ヶ谷山伏町。大江戸線「牛込柳町」駅近く。幾度が鉄柵門から覗いたが初めて入った。新宿歴史博物館ボランティアガイドが丁寧に説明して下さり、資料チラシ、さらにボランティア氏メモも写真コピー、資料『国史跡林氏墓地調査報告書』が図書館にあることも教えて下さった。それらから簡単にまとめてみた。

 林羅山は徳川家康に仕え、寛永7年(1630)に拝領した上野忍ヶ岡の別邸で家塾を設けた。明暦2年(1656)に羅山夫人没で別邸内に埋葬。その際に羅山は中国資料(詳細不明)で調べ、それに倣った儒葬を行った。その詳細を二世・鷲峰(長兄・次兄は夭逝)が『泣血餘滴』に記録していた。以下、そのポイントを要約する。

jyusou1_1.jpg まず壙(あな)を穿ち、穴の周囲を板で囲って、檜板の棺で埋葬(穴や棺の寸法などは省略)。その上に土を盛って墳墓とする。高さ約76㎝で形は「臥斧、馬鬣封の如し」。斧のような、馬のたてがみのような形で、崩れないように芝を植える。その前に高さ約48㎝の台石の上に、45㎝四方・高さ約76㎝の石碑(頭は四角錘)を立てる。(林氏墓地は、さらに石で墓城を囲んでいて、この形式も詳細記述)

 「林氏墓所」内の8代述斎~11代復斎の4基が、ほぼ上記の「儒葬形式」で写真の通り現存。だが4基共に石碑後の墳墓がなく、木が育っている。これは永い年月・風雨に墳墓が崩れた後に木が植えられた(育った)のだろう。

 では姿なしの墳墓「臥斧、馬鬣封のごとし」とは。これは羅山夫人葬にならったという水戸光圀公の墓(常陸太田市瑞龍山)のネット写真を見ると概ねの形がわかる。天下の光圀公ゆえ台座・墓碑も豪華誂えで、強固に拵えられた墳墓だが、そこから形が伺える。儒教の影響を受けた大名級の墓に、このような形が多い(カット参照)。林氏墓所の墳墓も当初はこんな形の土墳で、芝で覆われていたように推測される。

mitukunihaka_1.jpg 同墓所の変遷についても簡単に記す。羅山夫人が儒葬された上野忍ヶ岡の別邸は元禄11年(1698)の大火に遭い、その後に牛込の地(現・新宿区市ヶ谷山伏町)に2090坪の屋敷地を拝領。同屋敷北西端に羅山夫人、羅山、2世鷲峰らの墓をここへ改葬(墓石のみ)。同墓所は明治以降、徐々に縮小。最後は約20㎡の狭隘な敷地に約80基の墓碑・墓標等が林立。儒式原型をとどめるは前述4基。雑草樹木が繁茂の荒廃で、昭和6年に東京市が修築して永久保存。その後は新宿区が文化遺産保護で墓地を公有化。

 「林氏墓地」を訪ねたら、都内のもう一つの儒者墓地「大塚先儒墓所」(当時の通称〝儒者捨場〟)も訪ねてみないといけない。そちらは昭和12年に永井荷風も訪ねていた。(続く)

 追記:小島毅著『儒教が支えた明治維新』(晶文社)にこんな記述があった。~地方の大名の中には、より積極的に朱子学を受け入れ、仏教に代わる教学として位置づけようとする動きもあった。~として野中兼山、保科正之、池田光政、徳川光圀、前田綱紀らが神儒一致を唱えて朱子学式の葬送儀礼の実施を企てた、と記されていた。それぞれの墓をネットで見れば、彼らの墓所は多少の違いはあれ儒式だった。また、野中兼山は母の葬儀と墓制を朱熹の『家礼』に遵って実施した、と記されていたゆえ、林氏の儒式も『家礼』に遵ったように推測される。

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