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儒者の墓(1)掃苔を振り返って [朱子学・儒教系]

hakuseiitimon_1.jpg 小生の儒者掃苔を振り返る。

 まずは永井荷風の外叔父・鷲津毅堂(元尾張藩儒者)の天王寺墓地(谷中墓地隣接)を掃苔。円墳上に長い角柱が聳えていた。どう解釈しても儒式ではなく神式だった。同じ谷中墓地の徳川慶喜の神式の墓に似ていた。鷲津は儒者と云うより漢学者のイメージ。

 貝原益軒『養生訓』筆写にあたって益軒をお勉強した。仏教を捨てた益軒の墓は、福岡・金龍寺にあってネットで写真を見れば〝ほぼ仏式〟の墓だった。

 次に「千駄ヶ谷シリーズ」新宿御苑・千駄ヶ谷門辺りの屋敷で亡くなった儒者・新井白石調べで、中野区上高田の高徳寺の墓地を掃苔。低い四角柱の墓石で「新井源公之墓」(写真上が一族の墓。下が白石夫妻の墓)。浅草の寺から相当に圧縮改葬されたのだろう、儒葬の面影は全くなかった。

hakusekihako_1.jpg かくして儒者の墓が神式、仏式、低い四角柱などで小生には「儒者の墓(儒葬)」が全くわからなく成り申した。

 手元に岩波書店『日本思想大系/貝原益軒・室鳩巣』がある。同書によると貝原益軒も室鳩巣も新井白石も木下順庵の門下(木門)で、林羅山一族の昌平黌に対する陣を張った存在だったと説明されていた。

 貝原益軒は若い時分に江戸へ出た際に、林家二世・鷲峰を訪ねで儒学の道を進み、後の京都勉学中は木下順庵が幕府招聘されるまで相往来する仲だった。室鳩巣は20年余も順庵の指導を受けた。新井白石は順庵が幕府招聘されてからの門人で、後に林家三世の大学頭・林凰岡と職務を二分(張り合った)した存在。

 そして木下順庵、室鳩巣ら江戸の錚々たる儒者らは〝儒者捨場〟と呼ばれた「大塚先儒墓所」で眠っているらしい。同墓所は明治維新で昌平坂学問所が廃止された後に荒廃し、大正3年に整備されて都史跡へ。現在も湯島聖堂棋文会主催で年1度の「先儒祭」が行われているとか。

 一方、幾度か扉から覗いたことがある市ヶ谷山伏町「林氏墓所」は、狭い敷地に墓碑・墓標が林立。林氏墓所ならば昌平黌(昌平坂学問所、現・湯島聖堂)に最も縁が深いと思われるも、ここは新宿区の管理で湯島聖堂とは関係ないらしい。

 かく「儒者の墓」が分からず仕舞いだった小生だが、ここで一気にそれら疑問を解く機会が巡ってきた。新宿歴史博物館主催で「儒学者林羅山とその一族の墓81基」の年1度の特別公開で、林家の墓81基のなか8代述斎~11代復斎の4基が「儒葬形式」を留めた貴重な文化遺産とあった。さっそく訪ねてみることにした。(続く)

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