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儒者の墓(7)室鳩巣と新井白石 [朱子学・儒教系]

muronohaka_1.jpg 「大塚先儒墓所」に〝寛政の三博士〟が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」で痛みつけられた戯作者、狂歌、版元らについて記してきた。その辺は見逃せないが、まずは彼らの先輩・室鳩巣について。

 参考書は『将軍と側近~室鳩巣の手紙を読む』(福留真紀著、新潮新書)。著者は息子世代で、そんなに若い方の歴史書を読むのは初めて。初々しい語り口です。

 同書はウォーキング途中に新宿紀伊国屋で購い、翌日読了。少し前に新井白石をお勉強して、中野・高徳寺で墓も掃苔。「林氏墓地」から「大塚先儒墓所」も掃苔。同書は新井白石、林氏、室鳩巣がらみの内容で、まさにジャストの読書。

 著者のテキストは室鳩巣が、門人・青地兄弟に宛てた書簡集『兼山秘策』。著者はお茶の水女子大学大学院のゼミ4年間で輪読とか。同書は早大古典籍データベースで公開。小生もくずし字勉強中だがスラスラと読むに至らず。そうでなくとも目下は貝原益軒『養生訓』筆写中断。ここは著者記述と、日本思想大系『貝原益軒・室鳩巣』解説文、白石のお勉強済の知識も交えて自己流でまとめてみる。

 同書簡の期間は正徳元年~享保16年。木下順庵の推薦で新井白石が甲府藩・綱豊に仕え、綱吉没で綱豊が6代将軍・徳川家宣になったのが宝永6年。その2年後が正徳元年(1711)。同年に新井白石の推挙で室鳩巣が幕府儒学者になった。室先生、すでに53歳。

murohon_1.jpg 同書簡は、激務翻弄の白石の体調を気遣う手紙から始まっている。徳川家宣体制は<老中土屋はじめの幕府官僚vs甲府時代からの側近・間部詮房+新井白石>。白石は大学頭・林信篤(三世・鳳岡)の職責半分を担って(対立して)500石幕臣へ。将軍質問に白石が先例調べ⇒間部を交えた家宣詮議で結論を出し、それを書付にして幕府官僚に渡す体制。

 そこから「生類憐みの令」廃止。未決囚8831人保釈。老中の反対を押し切って朝鮮通信使への日本側要請を通したり~。諸施策については新井白石の項で紹介済ゆえ省略。家宣政治は「文を以て治をいたす仁政」。旗本らの困窮に一度に700人を召し出したり、庶民の声にも耳を傾けた。室の手紙には、そんな家宣政治に感激する報告が多かったそうな。

 だが家宣は、翌正徳2年秋に没。5歳の家継が7代将軍に就任。間部・白石は休む間もない。家宣の増上寺埋葬で増長した同寺大僧正の態度に、ならば踏み潰すぞに、寺は慌てて侘びを入れたとか。大学頭・林信篤も幕府官僚とつるんで反撃に出て来た。年号「正徳」は不吉。家継の服喪がおかしい、家継の「継」がよろしくない等々~。それらに間部・白石はことごとく論破。林家と他儒者の仲が芳しくなく、墓所が異なる意もこれで納得。

 そして正徳6年(享保元年)に家継8歳で没。質実剛健の徳川吉宗が9代将軍に。室鳩巣はその7年後、享保7年の殿中侍講をもって、吉宗ブレーンの一人になった。(続く)

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