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儒者の墓(8)室鳩巣(Ⅱ)享保の改革 [朱子学・儒教系]

murosan1.jpg_1.JPG 8代将軍に吉宗就任で、間部詮房・新井白山が罷免。室鳩巣は、当初の吉宗政治を「粗鄙浅露(低俗で深みがない)」の域と判断。確か藤沢周平『市塵』にも室鳩巣が「吉宗は文盲にてあらせられる」と言ったの記述あり。

 吉宗は、まず老中全員に直接会い、例えば「年間収納高は?」などを質問。全員不勉強が露呈。吉宗は白石の下で働いていた者でも仕事が出来れば再任。室鳩巣の吉宗評も次第に変化。

 「トップがバカなら官僚は忖度するも、吉宗は聡明ゆえ、それもかなわない」と記す。今の我が国のトップは愚かゆえに忖度が罷り通るのだろうか。室は一方「余りに厳しいと、家臣らの心も離れる。部下が上へ上げるべき書類を握り潰すこともある」とお手並み拝見の姿勢。

 吉宗の有力側近は有馬氏倫、加納久通。吉宗は彼らを大名にせず金子で加増。旗本に留めたことで、彼らには下からの情報も集まった。老中らは彼らに媚を売る。室はそうした姿を冷静に観察。吉宗政治は、かくして徐々に「険素」実践の人物が増えて姑息・へつらい・おもねる者が少なくなっていった。そう分析する室鳩巣が表舞台に出たのは享保6年正月の初御前講義から。ここで思想大系より『室鳩巣の思想』(荒木見悟)の記述より~

 「元禄年間に湯島の聖廟が落成し、林鳳岡(三世)が大学頭になるも一向に儒学興隆せずで朱子学の萎靡沈滞。吉宗は大学頭の怠慢とみて、享保4年(1719)に高倉屋敷(学館)を別立し、室ら木門(木下順庵門下)の儒者らをその講授に当たらせた」

 そうした実績を踏まえて室の初御前講義に至ったのだろう。これを機に室鳩巣も、吉宗の政務に参画。だが室は「身構えず、自らの考えを誤魔化さず、忖度せずに述べ、それの良し悪しは、お上の判断」というスタンス。吉宗はそんな姿勢が気に入ったらしい。

 享保7年、倹約令(幕臣の俸禄カット)。参勤交代制度の緩和(江戸滞在期間を半分+米の上納)等々~。室は質問に調べ報告するも〝断を下すは吉宗〟の姿勢を貫いて、享保19年に没。

 なお福留真紀著には、室鳩巣の思想に言及なし。新書の帯の「権力は誰のものか」を見た隣家の小学生が質問をしてきた。「おじさん、国民主権は何時からだったの」。「日本は〝天皇~将軍~大名~役人〟の封建国家がずっと続き、幕末に将軍が抜けて〝天皇~大名〟になり、明治には廃仏廃仏毀も~。戦前・戦中は〝天皇~軍部〟で、国民主権になったのは終戦後、おじさんが生まれた頃からだよ」と説明したが、それでいいのだろうか。次回は大塚先儒墓所に眠る寛政期の儒者らの、その辺を考えてみたい。(続く)

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