SSブログ

儒者の墓(9)寛政の改革と三博士 [朱子学・儒教系]

sibano_1.jpg 「大塚先儒墓所」には〝寛政の三博士〟こと柴野栗山(左の絵)、尾藤二洲、岡田寒泉(寒泉に代わって古賀精里)が眠っている。弊ブログでは「寛政の改革」に苛められた文人らについて幾度も記して来た。それら既読の多数関連書を思い出しつつ、新たに読んだ藤田覚『松平定信』(中公新書)を参考に記してみたい。

 徳川吉宗が紀州から江戸入りしたお伴の一人に田沼専左衛門がいた。彼の子が意次で、次の将軍・家重の小姓になった。16歳で父の600石を継ぎ、9代将軍・家重に本丸で仕えた。家重没後に10代将軍・家治へ(村上元三『田沼意次』より)。新将軍は父の遺言通り側用人に意次を登用。意次は安永元年(1772)に大名昇格と同時に老中に。幕政はすでに老中制確立で、将軍は学芸趣味に没頭。ちなみに将棋7段。

 老中・田沼意次は一貫して「商業重視」。それによって元禄の上方文化に比す、江戸文化が一気に花開いた。天明3年の浅間山大噴火による飢餓もあったが、浮世絵は錦絵になり、狂歌、黄表紙、洒落本もブーム。武士と町民が一緒に盛り上がった。「江戸っ子」なる言葉もこの頃に生まれたらしい。蘭学も盛んで『解体新書』刊。洋画(油絵・版画、遠近法)も導入。

 だが天明6年、家治歿。家治の子が急逝ゆえ、徳川治斉の子・家斉を養子にして次期将軍に決めていた。自分が将軍になると思っていた松平定信の歯ぎしり。家治薨去が公布されるまでの1ヵ月間に、反田沼派の暗躍で田沼意次が老中解任。

sibanonohaka_1.jpg 翌年「天明の打ち壊し」。吉宗の孫・定信が老中首席になって、将軍への道を阻止した田沼への恨みが爆発する。熾烈な田沼施策弾圧「寛政の改革」が始まった。勘定奉行逼塞。天明期文人らのパトロン・土屋宗次郎は死罪。平秩東作が「急度叱」。恋川春町は自刃か。宿屋飯盛が江戸払い。山東京伝が手鎖五十日の刑、蔦屋重三郎が身代半分没収。派手な衣装・かんざいを見付けると即奉行所へ引っ張った。「隠密の後ろに隠密をつける」執拗な取締り。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂が官立の昌平坂学問所(寛政の三博士は同所教官)になった。贅沢品禁止。倹約の徹底。幕府批判の禁止。混浴禁止。帰農令。囲米。棄損令(旗本らの借金チャラ)。出版統制も厳しく司馬江漢『西遊旅譚』も出版不可だし、艶っぽい浮世絵も姿を消した~と枚挙にキリなし。

 世の中が俄かに堅苦しくなった。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜も寝られず」「白河の清き流れに魚住まず 濁れる田沼いまは恋ひしき」の落首に庶民喝采。晩年の定信は芸術を愛したそうだが、老中6年間は実に嫌なヤツだったに違いない(お上嫌いの小生に偏見あり)。次回はそれを支えた〝寛政の三博士(全員が関西人)〟が何を考えていたか。さて、そこが探れましょうか?(カットはその一人・柴野栗山とお墓写真)。

 追記:森銑三著作集・第八巻「儒学者研究」に約80頁の長編「柴野栗山」がある。天明2年頃までの年譜中心の評伝で「寛政の三博士」「封建制度」「大塚先儒墓所」については一切書かれていなかった。発表は柴野の地元・香川の琴平宮(金刀比羅宮)機関誌「ことひら」掲載で発表は昭和10年。天皇についての記述は憚れたとも推測される。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。