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儒者の墓(10)寛政の三博士・柴野栗山 [朱子学・儒教系]

sibasada_1.jpg 「寛政の改革」の凄まじさに大田南畝も狂歌を断って「学問吟味」に挑戦した。行き詰まった時の政府の常套手段が庶民苛めだ。今回は「武」奨励と「文」の締め付け。そのヒステリックなまでの厳しさに「世の中に蚊ほどうるさきものはない ぶんぶというて寝てもいられず」。

 「異学の禁」で蘭学禁止。朱子学を幕府公認学問として、聖学堂が昌平坂学問所に。そこに招聘されたのが「大塚先儒墓所」に眠る〝寛政の三博士〟こと柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉(後に古賀精里)。藤田覚著『松平定信』(中公新書)に、柴野栗山についての記述があった。

 ~栗山は天明8年〈1788)に定信に登用されて幕府の儒者となり、寛政の文教政策に重要な役割を果たした。〝栗山上書〟は執筆年不詳だが、定信へ差し出した意見書は~

yusimaseido.jpg.jpg ~畢竟 日本国中の万民、天道より将軍家に御預け成され指し置かれ候ようなる物にて御座候~で始まって、武家が政権を掌握したのは、朝廷が道理・徳を失い権力を失ったため。つまり天帝・上帝である天道が、日本国民を将軍に預けたようなもの。「天道~将軍~大名・役人~国民」ゆえに、江戸幕府が道理をたてなくてはいけない、と記してあると紹介。

 一方、国学者・本居宣長は「わが国の国土と国民の支配は天照大神~天皇~東照大権~将軍~大名という委任論」。後期水戸学の祖・藤田幽谷は定信の求めに『正名論』で〝尊王〟を説いた。幕府が朝廷を尊べば、諸大名が幕府を尊び、家臣が大臣を尊ぶ。これで上下の秩序が保たれ平和が維持されるの論。いずれにせよ国民は被支配層。

 以上から定信は、幕府の政権は天皇・朝廷から委任されているという大政委任論を表明(これが最後の将軍慶喜の〝大政奉還〟まで続く)。よって定信は京都御所焼失(天明大火)に莫大予算を投じて、荘重で復古的な御所を再建して朝廷崇敬。

 小生は以前のブログに「財政逼迫で江戸庶民を苛め抜いている最中に、彼は何を考えているのか」と疑問を呈したことがあるも、その意が今になってわかった。藤田著には「定信は天皇は天地のあらゆる神々に護られて万民を子とする人民の親であり、国家と国民の興廃に密接に関わる存在である」と結論したと紹介。なにやら大日本帝国憲法がすでに始まっているようです。

 田沼憎しと上記の論で、庶民から盛り上がった文化を徹底的に弾圧する強引さと権力集中に、庶民は「白河の清き流れに魚住まず、濁れる田沼いまは恋しき」で愛想が尽きた。将軍家斉からの信頼も失って6年で失脚。窮屈な世から解放された江戸庶民は再び「文化文政文化」の大きな花を咲かせることになる。写真下は現在の湯島聖堂・大成殿。

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