SSブログ

9)宇江佐真理と大田南畝旧居 [朱子学・儒教系]

harukaze_1.jpg 蔵書せぬ主義だが本は増える。先日は高価で捨て難かった洋書ゴルフ大型本を二括り捨てた。女房も膨大な時代小説群を捨てている。終活です。それでも残った宇江佐真理『雪まろげ』から「14歳の蜆売り・新太が手習所で習った『論語』だって澱みなく言えた」に、そりゃないだろうと記したばかり。

 そしてもう一冊、同作家の『春風ぞ吹く~代書屋五郎太参る』について。同文庫がなぜ本棚に残っていたかと云えば、同小説は代書屋で働きながら昌平坂学問所に通い、学問吟味に挑戦する小普請・五郎太の物語で「大田南畝」が登場しているからなんです。

 物語最終章「春風ぞ吹く」。五郎太が代書屋に詰めていると、芝居見物帰りの南畝(七十前後)が妾お香さんと入って来る。風邪気味ゆえ京伝店へは行かず代書(狂歌一首)の配達を頼んできた。

 老人は、五郎太を学問吟味に挑戦中と察し、自ら著わした学問吟味の詳細『科場窓稿』を進呈するゆえ、京伝店の返事を自宅に届けてくれと頼む。南畝が「寛政の改革」によって学問吟味を受ける経緯や当時の状況などを詳しく記して興味深い小説なのだが、どうも大田南畝の家の設定がおかしいのです。

 「老人の家は急な金剛坂を上り、東に折れて三軒目にあった」。坂を上り切れば、そこは現・春日通り。同じく金剛坂生まれの永井荷風は、南畝の家を「是則金剛坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛坂の中程より西に入る低地なりと検証家の言ふところなり」と記している。金剛坂を下れば、そこはさらに低地・鶯谷で、そこを見下ろす見晴らしのよい崖上に南畝の「遷喬楼」と名付けられた家があったが定説。「鶯が喬木に遷るに逢う」の意の命名。この辺は実際に現場を歩いてみないとちょっとわからない。その谷底を今は地下鉄・丸ノ内線が通っている。

nanpokesiki.jpg.jpg さらに決定的な間違いは、南畝は文化9年(1812)の64歳に、金剛坂から駿河台淡路坂の拝領屋敷に移って、最晩年の11年間をそこで過ごしている。二階の十畳が彼の書斎・客間。そこから神田川渓谷向こうに湯島聖堂の甍と森が、その左に昌平坂学問所が見える。南畝はその家を聖堂の「緇林杏壇」から「緇林楼」と名付けていた。ここに五郎太を招いていれば、物語はさらに盛り上がったろうに、作者は迂闊にも「緇林楼」を見逃していたらしい。

 小生、南畝旧居巡りをした際は、「緇林楼」の地はずっと工事中で、2013年に23階ビル「御茶ノ水ソラシティ」完成後に「蜀山人終焉の地」の立派な史跡看板が設置され直されていた。そう云えば永井荷風の麻布「偏奇館」も45階「泉ガーデンタワー」になって、1階の植え込みに「荷風旧居」の史跡看板ありで、江戸文化人の旧居は、かくも高層ビルに呑み込まれている。

 小生、永井荷風好き。荷風が大田南畝好きで「年譜」まで作成していたことで大田南畝を知り、「寛政の改革」や「学問吟味」も知った。而して今、学問吟味の「儒教・朱子学」のお勉強に相成り候。写真は「緇林楼」から湯島聖堂辺りを臨んだ今の写真。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。