SSブログ

12)朱子学・陽明学は関西中心? [朱子学・儒教系]

masakado.jpg.jpg 森銑三著に「寛政の三博士は全員が関西人」なる記述があった。過日「大塚先儒墓所」を掃苔したが、余り胸に響かなかったのは、そのせいかも知れない。同墓所に眠る室鳩巣と岡田寒泉のみが江戸の人で、他全員が関西出身者。そこを調べ記してみる。

 まず江戸生まれの室鳩巣は現・台東区谷中生まれ。14歳で金沢藩に仕え、京都遊学で木下順庵に学ぶ。岡田寒泉は西丸書院番の子。松平定信が老中退任後は常陸の代官職。そして以下全員が関西出身者。

 木下順庵は京都出身。藤原惺窩の弟子かつ姻戚の京都・松永尺五に師事、一時は江戸にいたが京都に戻って金沢藩に仕え、その後に江戸幕府儒官。「木門十哲」を輩出した。柴野栗山は讃岐(香川県)生まれ。高松藩の儒者に学んだ後に、湯島聖堂で学び徳島藩の侍講に就任。定信に召喚されて昌平坂学問所の最高責任者へ。

 尾藤二洲は、伊予国(愛媛県)生まれ。24歳まで讃岐国の儒者に学び、その後は大阪の片山北海の門下。古賀精里らと共に学んで寛政3年に昌平坂教官へ。古賀精里は佐賀藩士の子。京都で朱子学を学んだ。彼らの先輩の藤原惺窩は、播磨(兵庫)生まれ。歌道の下冷泉家系で、家康に侍講したが危険察知で京都鞍馬の山麓に隠棲。林羅山も京都生まれ。

 次に幕末志士らに影響を与えた陽明学の方々を調べれば、大塩平八郎が大坂町奉行の元与力。中江藤樹は近江国(滋賀県)出身で近江聖人。熊沢蕃山は京都下京区の浪人の子。備前国岡山藩主の小姓から近江に戻って中江藤樹の門下。三輪執斎も京都の医者の子。江戸~京都を住み替えつつ、晩年は京都に退居。吉田松陰は長州藩士。

 儒教が朱子学から陽明学へなるに従って、それが俄然、西の人の学問・思想の感が濃くなってくる。江戸っ子の長屋暮しの熊さんにはとんと縁がない。「幕末は表向き、陽明学歪曲の革命的解釈だが、根は日本古来の神道による王制復活だった」と指摘されれば、江戸っ子庶民にはますます縁遠い。

 天皇が江戸城に入った年が明治元年。それまでの江戸庶民の〝お上〟は徳川だった。江戸っ子の総鎮守が「神田明神」で、そこには坂東武士のヒーローで東国独立で〝朝敵〟となった平将門が祀られている。「山王日枝神社」は江戸氏や大田道灌が建立で、別当寺は鏡智院。御祭神は山や水を司る地主神・大山咋神。さて、江戸っ子・熊さんは朱子学や陽明学をどう解釈したらいいのだろうか。写真は「神田明神」。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。