SSブログ

14)改めて、松平定信とは(上) [朱子学・儒教系]

sadanobu1_1.jpg 松平定信(第11代将軍家斉の老中)については<儒者の墓(10)寛政の三博士・柴山栗山>の項で紹介済。また「寛政の改革」については幾度も記してきた。朱子学を幕府公認学問とし、「天皇~将軍~大名・役人~国民」思想。小生はそれが「尊王・大政奉還」へ、さらに「大日本帝国憲法」に至るようですと記した(定信72歳没の38年後に大政奉還)。

 さて松平定信は、果たしてそれほどの人物だったのだろうか。彼の父は8代将軍・徳川吉宗の第2子・宗武。父の兄・家重が健康芳しくなく、次期将軍は自分と思っていたも、兄が将軍就任。宗武は江戸城内の田安邸へ。兄の欠点を羅列して、吉宗から3年間の謹慎命。

 宗武の子は15名。正室から生まれた治察が嫡子で、側室との間に生まれた7男が定信(幼名・賢丸)。7歳から学問開始。書道や儒学を。11歳から和歌、弓・剣・槍・馬術を。12歳で猿楽や絵(狩野派、南蘋派)も学ぶ。この頃の江戸は浮世絵が錦絵になって大流行。

 父の将軍就任が叶わずで、定信は幕政への意欲を胸に秘める。明和8年、14歳の時に父死去。兄・治察が相続。安永3年、17歳の賢丸は白河藩主・松平定邦に婿養子へ。田安邸で暮しつつ「松平定信」に改名。同年に兄・治察が病没。定信は田安家相続を願うも〝執政邪路のはからいで(田沼意次の反対で)〟田安家相続~将軍の道が絶えた(実際は一橋治斉の工作だったらしい)。田沼を憎むこと・恨むこと。

 松平定邦が発病で、定信は定邦の娘・峯子(5歳年上)と結婚。八丁堀の松平藩上屋敷に移居。この頃の定信の述懐~「20歳の頃までは四書五経のみを学んだために頑なで人情にも疎かった」(その狭量は後も変わらず)。政治に権力に意欲、かつ頑な性格の彼にとって、為政者向き朱子学はもろに嵌った。と小生は推測する。

 安永8年、22歳。将軍世子の家基が18歳で急死。一橋治斉の子息・豊千代(家斉)が世子へ。一橋が御三家・三卿と組み、権力願望の強い定信を仲間にした。時、天明3年7月の浅間山噴火。前年も凶作で〝天明飢餓〟。白河藩主・松平越中定信になった彼は、いち早く米穀買入れに奔走して白河入り。倹約質素、農業増産、商業資本の統制、風聞流布の警戒、家中引き締めの武力強化策(これらが後の「寛政の改革」へ)

 天明4年3月、旗本某が若年寄の田沼意次の嫡子・意知を襲う(裏で誰かが動いていたの噂)。そして天明5年に定信が一代限りの「溜間詰」になって、田沼追放に画策開始。

 天明6年、家治没で家斉が将軍へ。御三家や一橋治斉らの推挙で定信が老中首席と奥勤めを拝命。田沼意次失脚と田沼家と田沼派を激しく追放。(以上、高澤憲司著『松平定信』と磯崎康彦著『松平定信と生涯と芸術』を参考にまとめた。両著者の定信評は正反対)。

 絵は30歳の定信自画像模写。撥乱而反正(乱を撥めて正に返す)賞善而罰悪(善を賞して悪を罰す)と書いてあった。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。