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19)定信の造園:大塚六園と海荘 [朱子学・儒教系]

rikuen_1.jpg 「浴恩園」の次は、大塚の白河藩抱屋敷「六園(りくえん)」について。同園は約2万坪。造園は文化5年(1808)で定信51歳。場所は嘉永期(1848~1855)の「江戸切絵図」(写真下)を見れば、護国寺の先(現・大塚3丁目交差点辺り)に「松平越中守」地あり。2万坪もありそうもない。ネットにアップされた「江戸の定信庭園」チラシらしきの「六園」地図を見ると、その地から現・東邦音楽短期大学から大塚公園(元・松平長門守下屋敷)手前まで広がっている。実際はどうだったのだろうか。

ohtukarikuen_1.jpg ここで気付くのは、「寛政の改革」時の仲間〝寛政の三博士〟らが葬られた「大塚先儒墓地」の眼前ではないか。この時期には、定信は彼らと〝没交渉〟だったのかしらとも思う。

 同園は春園、秋園、集古園・竹園・攢勝園で構成。「集古園」の石蔵には定信蒐集の古画、古書、古物、また『集古十種』版木などを収納。攢勝園には浴恩園から珍しい植物などが移植。また同園は抱屋敷ゆえ明治維新後も接収されず、明治43年に旧桑名蕃主松平子爵邸になったらしい。絵は国立国会図書館デジタルコレクションより「大塚里 六園館御苑真写之図」。

 かくして松平定信の造園道楽は歯止めなし。次に紹介は文化13年の定信59歳、深川入船の抱屋敷に「海荘(はまやしき)」を造園。東京湾に接し、房総半島の山々、羽田や品川沖に富士山を遠望。定信は築地の「浴恩園」から遊び船「問影丸・探香丸」に乗って「海荘」へと遊覧したらしい。現・東富橋の南詰に「海荘跡」の史跡案内板があるらしい。

 「寛政の改革」で倹約質素、贅沢禁止で江戸庶民文化の芽を摘んだ定信の、後の造園論や芸術論、また雅文の『花月日記』など読みたくもない。江戸庶民も定信晩年の姿まで厳しい眼(恨み)を注ぎ〝落首〟で憂さを晴らしていた。

 最後に定信の隠居後の他の主な仕事を簡単に記す。寛政12年の『集古十種』編纂。描いたのは谷文晁、白雲、大野文泉。谷文晁に古画模写をさせた『古画類聚』。弊ブログで司馬江漢シリーズを記したか、そこに登場の亜欧堂田善に銅版画を学ばせて蘭書を模写させている。蒐集した蘭書(天文・世界地図)を通詞・本木良永他に翻訳させている。また自身が名君だったと後世に伝えようと伝記『羽林源公伝』『宇下人言』などもあり。

 文政12年〈1829)72歳。神田出火の大火で松平家の八丁堀上屋敷、築地「浴恩園」、三田の中屋敷など類焼で、病身の定信が寝たまま大駕籠で避難。この時の落首も残されている。仮寓の中屋敷で同年5月、72歳で没。

 松平定信は大日本帝国時代に注目・評価され、戦後の民主主義と学問の自由によって、それまで隠蔽されていた部分などが明るみになって、今では注目もされぬ存在らしい。この辺で松平定信について終わりましょう。

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