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21)大塩平八郎は元与力 [朱子学・儒教系]

miyagihon.jpg.jpg 王陽明(陽明学)は政府中枢にいて農民蜂起を討伐し続けた。大坂町奉行所・元与力で陽明学者の大塩平八郎は、天保8年(1837)に幕府反抗の乱をおこした。以下、宮城公子著『大塩平八郎』を参考にする。

 陽明学については<11)陽明学から幕末へ>で島田虔次『朱子学と陽明学』、吉田公平著『王陽明「伝習録」を読む』を参考に記した。宮崎公子は島田と子弟関係らしく、肝心の陽明学に執拗に迫っているので読み通すに難儀も老脳に鞭打って読み通す。

 大塩平八郎は大阪・東町奉行与力の父と、同役の娘との間に寛政5年(1793)に生まれた。7歳で父を、8歳で母を亡くし、祖父に育てられた。文化3年、14歳頃に与力見習い。文化5年(1808)16歳から定町廻役(盗賊、乱暴者を捕える)。

 先祖は戦国武士で、今は町奉行配下で底辺の俗塵にまみれた自分を卑下していたとか。東西奉行所は各々与力50名、同心50名。与力屋敷500坪で200石だが役得多し。江戸から派遣の町奉行は数年で交代も、与力や同心は「地役人」。庶民と密接ゆえ実権は与力が握っていたらしい。

 20代半ばで、与力としての内面=道徳の重要性で儒教に接した。「孝・仁」と「五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を見つめ直す。だが身近な儒者らは束脩料(入門料)、祝儀、揮毫等の諸収入をいかに増やすかに夢中で、彼は次第に独学へ進む。そのなかで惹き付けられるように陽明学へ。

 著者は彼の陽明学傾倒は、その要点の一つ「人心の良を拈ず」にあったと記す。つまり「人心の良=人間の心の生まれつき持つ良きもの=良知(ナイーブな道徳心)を拈ずる(工夫して捻り出す)こと」

 平八郎の陽明学を、さらにこう説明する。~心は悪も善もない虚霊。悪や善が心を塞げば「良知」の働きを失う。それは『大学』解釈の「好色を好むが如く、悪臭を悪(にく)むが如し」。つまり心本体の正直な身体的知覚的直観まで深めた道徳心こそが「良知」。

 そんな「良知」に「習気情欲」が蔽う前、心の起念と同時に善悪が生じるゆえ、心が動く瞬間の微細さのなかに独り知る=良知の判断=誠意慎独が肝心で、その「功夫(くふう)の訓練、鍛錬」で咄嗟の瞬間を大事しようというもの。

 平八郎のそんな陽明学に耳を傾ける人が増えて、彼は屋敷地500坪内に私塾「洗心洞」を設ける。文政8年(1825)33歳、その体制が整って塾生(寄宿生)17,8名。門弟は与力・同心衆4、50名。普通の儒学塾は入門期間が短いが、彼の塾は縁戚関係も濃厚で在塾10数年余など結束も固い。文政11年(1828)36歳、洗心洞で王陽明300年祭を開催。「大塩平八郎の乱」まで、あと9年~。(続く)

 ※図書館で借りた朝日新聞社刊はカバーもなく汚れていた。〝書影ご自由にお使い下さい〟の「版元ドットコム」よりぺりかん社刊を拝借した。

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