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22)大塩平八郎、陽明学は両刃の剣 [朱子学・儒教系]

ohsioe_1.jpg 大塩平八郎は、与力の働きと同時に「洗心洞」で陽明学の講義を続けた。熱心な平八郎と塾生ら。その背景には、それだけ乱れた世があった。特権商人と農民の対立。物価高。役人の「忠・孝」は表の顔で、裏では褒美・官職・知高を上げるべくの功利主義蔓延。

 平八郎が扱った代表的事件は、文政10年35歳の時の切支丹事件。これはインチキ加持祈祷集団事件で、切支丹として6名磔他65名処罰。文政12年の奸吏糾弾事件。古参与力の悪事摘発で、贓金3千両を窮民に賑恤。文政13年には破戒僧遠島事件。不埒僧ら50名余を遠島など。

 この時の彼の役職は見付役、地方役、盗賊役、唐物取締役の各筆頭兼任で与力権勢トップ。清潔かつ正義感の名与力。だが彼は破戒僧事件後の上司辞任に併せて辞任した。余りの彼の潔癖さ、厳しさが同僚から敬遠され、軋轢を生んでの隠退らしい。

 致死(隠退)翌年、天保2年〈1831)に各地10万人規模の百姓一揆。翌々年に播州・加古川(神戸と姫路の中間辺り)で富豪を打ち壊し。飢餓が大坂に迫った。

 王陽明は反乱農民を次々に討伐したが、彼の陽明学を学んだ平八郎はどうしたか。反乱庶民を一網打尽にするのが「天地万物一体の仁」か? 民衆は公儀を恐れ法律禁令を守るが「孝」とは云え、それを破らざるを得ぬ民の討伐は「単に民衆支配の思想」ではないか? 民には父子兄弟妻子もいよう。彼ら討伐は「明明徳」を捨てることではないか? 小生は平八郎がそう思った瞬間、彼は陽明学を越えて〝狂〟になったと推測する。

 天保7年(1836)大飢饉。ついに大阪でも日に40人の行き倒れ。だが新任の大阪東奉行の窮民救済策は生ぬる上に、徳川家慶就任式費用の江戸廻米の奔走で、大坂の米を買い占めて江戸に送った。豪商らも飢餓状況を見て見ぬふり。

 平八郎は隠居の身ながら、町奉行に飢餓対策を建言するも却下で〝ついにキレた〟。「知行合一」で挙兵。檄文に「大阪の奉行並諸役人ども天地万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を~」。陽明学は「反逆討伐」と「幕政反逆」の〝両刃の剣〟になった。

 挙兵資金は、彼の蒐集書籍売却の620両他。だが挙兵は密告されて小1日で鎮圧。大阪市街5分の1を焼失しただけで終わった。「大塩平八郎の乱」の後世評価は賛否両論。安政の大獄~桜田門の変迄あと20年ほど~。

 彼の著作『洗心洞剳記』も未読だし、幕末周辺のお勉強もありましょうが、それらを宿題にして、このシリーズ暫らくお休みです。

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