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新井白石の元禄地震、宝永噴火 [読書・言葉備忘録]

funkajisin_1.jpg 新井白石『折たく柴の記』。~今はいとまある身となりぬ。心に思い出づる折々、過ぎにし事ども、そこはかとなく記しおきぬ~を、いとまある身の小生も読む。ここでは「元禄地震」と「富士宝永噴火」の概略紹介。

<元禄地震> 白石が木下順庵推薦で甲府藩・綱豊(江戸は桜田邸)儒者になって約10年後。元禄16年11月22日に「相模トラフト」地震。熱海津波7m。伊豆大島の波浮池が海とつながった。

 湯島に住みし頃、癸未の年(元禄16年・1903)11月22日夜半過ぐるほどに、地おびただしく震い始めて目さめぬれば、腰の物どもとりて起き出るに、ここかしこの戸障子皆たおれぬ。(屋敷後ろが湯島天神の崖で、家族全員が東の大庭へ)

 地裂くる事もこそあれとて、倒れた戸などを並べ、その上に避難した。「我は殿に参るゆえ、皆は家にとどまれ」と言いて馳せ出づ。道を息切らせ歩いて行けば、家は小船が大浪に動くが如し。(桜田邸へ向かう途中、神田明神下で)再び地夥しく震え、家々に燈が見えた。家たおれなば、火こそ出づべけれ、燈うち消すべきものをと叫ぶ。

 (神田川を越え、駿河台~小川町~日本橋川へ。川が氾濫したか地裂けて水が湧き出ている。家々が倒れて人の叫ぶ声。石垣は崩れ、土塵が空を被い、早くも町に火が広がっていた。大手町から日比谷へ) 藩邸門の番屋倒れ、苦し気な声がする。藩邸を見れば火が上って、天井も落ちかかっている。やっと間部詮房と会う。家老たちは御庇に敷かれた十畳ばかりを庭上に座って避難していた。~など当日、翌日の詳細が記されていた。

<富士山噴火> それから4年後の宝永4年(1707)。綱豊が綱吉の世継ぎに決まって家宣と改名。白石は家宣に帝王学を進講。雉橋外の飯田町の拝領屋敷へ移居の半年後。

 11月23日。地震い、雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとく。よく見るに白灰の下れるなり。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。草木もまた皆白くなりぬ。25日にまた天暗くして、雷の震するごとくなる声し、夜に入りぬれば、灰また下る事甚し。この日、富士山に火出て焼けぬるによれりという事は聞えたりき。これよりのち、黒灰下る事やまずして、12月の初めにおよび、9日の夜に至りて雪降りぬ。

 そんな怖い災害体験を有している日本人なのに、何故に危険な原発をあれほど造ったのだろうか。しかし輸出まで目論む愚かしさ。日本人は何でもすぐ忘れて、目先の利に眼がくらんで過ちを繰り返す続ける。

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