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23)垣内景子〝無思想で歩め〟 [朱子学・儒教系]

syusigaku_4_1.jpg 朱子学・儒教シリーズを中断したが、垣内景子著『朱子学入門』(ミネルヴァ書房)を読んでから一区切りにしたくなった。著者が言いたいことは「はしがき」と「おわり」に記されていた。

 (目下、オルテガ『大衆の反逆』読書中だが、結論が各章最後にある。そこを読んでから最初から読み始めるとわかり易い)

 垣内は同著趣旨を「はじめに」でこう記していた。~(朱子学は)心の問題を解決し、より心安らかに生きるための思想。私たちの考え方や感じ方には、知らずうちに規定しているものの一つに朱子学が入っていないか。ならば朱子学から自由になるために、その正体を知らなければならない。

 入門書ゆえ、本文は儒教~朱子学~陽明学などの解説中心で、それはこのシリーズでお勉強してきたので省略し、一気に「おわり」の結論へ飛ぶ。

 ~(本文を終えて、さて)私たちは朱子学から自由になれたか。その正体をつかみ、その外に出ることができたか。朱子学の何がそんなにまずいのか。「あるべき」は本来「あるがまま」と考える朱子学だが〝世界をそのように単純化し、人間をそのように一様なものと見なしてよいのだろうか〟。そうした反省をした時に、私たちは初めて朱子学の外に立てるのではないか。

 かつての日本人は、朱子学を通して得た「思想」という武器で対外的に強くなろうとした。その「思想」の排他性や闘争性は、朱子学の「理」の正体でもあった。いま私たちは、日本の「無思想」をこそ武器にして、国際社会の中で独自の役割を果たすべきではなかろうか。

 日本の「無思想」は、無節操や無責任ではなく、むしろ研ぎ澄まされたバランス感覚で、安住を拒否し続ける覚悟に他ならない。理屈を振りかざす者たちの確信に満ちた姿に胡散臭さを嗅ぎ取る感覚が必要だ。

 そこで朱熹のバランス感覚に注目したいと続ける。朱熹とその後の朱子学の違いは〝偏らない〟点にあった。決して終わらない「工夫」の道程を進むこと。学び続けること。朱熹の生き方は、無限の連続の保証。安定的な足場に安住しない。無限の移動でもあった。

 この書を、こうまとめて「朱子学・儒教シリーズ」に一区切りをつけます。

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