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応仁の乱(3)嘉吉の変 [日本史系]

IMG_1973_1.JPG 小説の「牛」は「奈え」(湯屋に買われた仲間)が病気で臥せったままで「捨てて来い」と命じられる。「牛」は彼女を賀茂川と荒野川の合流、荒蕪地に住む頭に世話を頼むべく賀茂川へ。

 そこで作庭作業員を求めに来た「新蔵」(人買いで買われた仲間)と再会。彼は山水河原者(作庭を業とした人の呼称)として名高い「善阿弥」に買われて修業中だった。時は文安6年(宝徳元年1449)。元服した足利義政が8代将軍になった頃。

 ここで改めて「応仁の乱」までの政情を、呉座著と石田著を参考にまとめてみる。まずは6代将軍・足利義教(よしのり)の時代。永享元年(1429)に大和国(奈良)の守護職・興福寺が弱体化し、大乗院と一乗院衆徒が覇権争い。義教は当初「大和放任論」も、ここで武力介入。以来、義教は討伐命、赦免、家督替えの峻烈果断な政治を行った。

 永享10年(1438)、大規模動員で足利持氏(関東公方)を討つ=「永享の乱」。嘉吉元年(1441)前年には、下総結城城(茨城県)に結集の反乱軍を攻略。戦況芳しくなく畠山持国へ出陣命も動かずで、異母弟・持永へ家督替え。嘉吉元年4月の総攻撃でやっと結城城陥落。

 この戦勝祝宴として将軍を自邸に招いた赤松家が義教を暗殺=嘉吉の変。★ドナルド・キーン著:義教が際立っていたのは残忍な気性。公家はじめ高貴な身分の者80名を処罰。少しでも気に食わぬと都追放、投獄、暗殺、斬首の〝恐怖政治〟。満祐は狂人を装って義教の猜疑心をそらせていたが、一説では義教が赤松一族の美男・貞村を寵愛し、彼に満祐所領の播磨・備前・美作を与える噂であったこと、従来からの足利家への忠誠も認められずに義教の首を取った、と説明されていた。義教亡き後は7代将軍に嫡男・千夜茶丸(8歳。後の義勝)が継承で、管領の細川持之が政務代行。 

 義教のタガが外れて、失脚中の畠山持国が武力で家督復帰。同じく楢原氏に家督を替えられた越智の子・春竜丸も家督を奪取。興福寺追放の経覚も力づくで禅定院(大乗院)門主に復帰。畠山氏も持国の実子・義就と、弟の遺児・弥三郎が対決。弥三郎が細川勝元に助けを求めたことで細川・山名宗全VS畠山義就の構図が出来た。

 その最中、嘉吉3年(1443)に7代将軍義勝が10歳で没。彼の弟・三春(8歳、義政)が継ぎ、14歳で元服して文安6年(宝徳元年・1449)に8代将軍義政(よしまさ)誕生。★ドナルド・キーン著:義政の母は日野重子。乳母は10余歳年長の今参。今参は乳母かつ愛人(妾)でもあり。富子との結婚前に数多くの色事経験で三人の女児を産ませているのも今参の影響。結婚後の今参は側室に佐子を入れて娘を生ませている。政治に口も出す。富子に念願の男子誕生を果たすも間もなく没。母・重子が今参の呪いと説き、今参は流罪・自害した。

 義政は持国・義就側に立って弥三郎を討伐命も、弥三郎勝利で彼の畠山家の家督を認めた。細川が不満で趣旨撤回。また弥三郎討伐へ。義政の迷い、討伐、赦免、家督替えで大混乱。

 ●河合正治著:義教の恐怖政治のタガが外れて、義政の時代になると、彼がいくら命令を下しても守護や地方武士らは言う事を聞かず。義政は本来が武人に向かない性格で優柔不断、かつ側近たち動かされて朝令暮改に終わることが多かく、いきおい文化面に専念する。

 ややこしいので小説「牛」に戻る。「もも」が彼の子を身籠り、二人は湯屋を脱出。薪拾いの荷台に「もも」を隠して逃亡も追手に囲まれる。「もも」を逃がした「牛」のピンチを、将軍に仕える一色義直(応仁の乱では西軍)に助けられる。一色の脇に控えた武具家(皮革商)宇野屋仁阿弥が「牛」を預かることになる。

 小説『深重の橋』も「応仁の乱」関連書もここまで大半を要すも一挙にまとめてみた。似顔絵は著作権問題が面倒臭いから自己流で描いている。似るも似ないも筆まかせ。

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