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応仁の乱(4)東軍・西軍の陣容 [日本史系]

ikyutohon_1.jpg さて、追手から逃れた「妊婦もも」は奥路地へ逃げ込んだ。元武士で盗賊に右足を斬られ、今は笠張職の夫妻に助けられた。彼らの保護で「牛の子・頼助」出産。その1年後に彼らの妻が病没で「もも」が後添えに。4年後に九郎三郎の子「平助」誕生。

 康正元年(1455)、20歳になった将軍義政に日野富子が嫁す。その4年後の長禄3年〈1459)、人買いに売られて15年後の「牛」も30歳。宇野屋手代の相談相手にまで成長。

 長禄の4年間は凶作続きで土(土倉=金貸し)一揆が頻発。四条橋から見る賀茂川は飢餓による死体の山。某僧が数えた推定で8万2千余とか(関東大震災の死者行方不明者は10万5千名と推定)。「そうだ京都、行こう」と思えぬ地獄絵。★ドナルド・キーン著:飢饉最中の長禄2年、義政は贅沢な将軍御殿(烏丸殿)の修復工事完成直前に、その御殿を義満が建てた室町第のあった場所に移すと金に糸目をつけず遂行。

 将軍義政に子が出来ぬ。弟・義視を後継者にしたが、その後(寛正6年)に日野富子が男児(後の義尚)出産。富子は我が子を将軍にしたく山名宗全の力を借りた。義視と昵懇の細川勝元・山名の対決構造がはっきりした。かくして応仁元年(1467)から文明9年(1477)の11年に及ぶ「応仁・文明の乱」。京都は徹底的荒廃へ向った。

 内乱の陣容を記す。将軍義政も合力の東軍大名=細川勝元・成之・成春、常有・持久。畠山政長、京極持清、武田信賢、斯波義敏、赤松政則、山名是豊。(主力は細川一門と畠山、京極で兵力は最大16万騎)

 西軍大名=山名宗全・教之・政清、豊。斯波義廉、畠山義就、一色義直(将軍側近だったが国で若狭守護武田と戦っていたために西軍参加)、土岐成瀬、六角行高、富樫政親、後に大内政弘。(主力は山名一族と斯波義廉、畠山義就。兵力は最大11万騎)。これは国元の合計兵力で、現地開戦に召集は両軍合わせて5万人ほど)

 なお、この時期の一休宗純は最晩年。禅宗の腐敗に抗して(世も終わりの荒廃。既存価値崩壊、混沌にあって人の原点復帰への喚起ではと考えるのが正しいだろう。ならば意地の張り合い終始の武将らに比しまともなのは一休さんと言えなくもなかろう)の奇行。77~87歳で4、50歳も若い盲森女と暮し、赤裸々な性愛も詠った漢詩集『狂雲集』を刊。「美人陰有水仙花香」楚台応望更応攀、半夜玉床愁夢顔。花綻一茎海樹下、凌波仙子繞腰間。どなたか現代文に訳していただけますか。

 カットはいとま持て余して「一休宗純」似顔絵に、石田晴男著『応仁・文明の乱』をWindows「ペイント」で合成してみた。ドナルド・キーン著:墨斎描く一休像は、顔から複雑な性格が読み取れる一人の人物を描き出した日本最初の肖像画である、と記している。一方、伝・土佐光信が描く足利義政の肖像画は人物についてほとんど何も語っていないと記す。

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