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応仁の乱(5)「牛」息子の死と足軽 [日本史系]

asigaru5_1.jpg 小説『深重の橋』に戻る。一色義直が宇野屋仁阿弥に傭兵を乞う。主人は38歳・牛に「宇野屋牛坊丸」の名を与え、その35人の大将にして東軍・一色の館へ向かわせる。高島屋へも東軍・細川一族と昵懇の京極持清より傭兵依頼。そこに「もも」が産んだ牛の子、17歳「頼助」がいた。

 まず合戦の前哨戦は「御霊合戦(上御霊神社の戦い」。西軍・畠山義就(よしひろ)の軍勢3千騎が、東軍に攻め込んだ。「頼助」は京極軍の背後にいて、朝方に西軍の勝鬨を聞く。東軍・畠山政長軍の50名が討死。政長は細川勝元の館に逃げ込んだ。

jinjyuno2_1.jpg 朝廷は、この戦いを終えさせるべく「応仁」(1466)に改元。「牛」は東軍・一色義直軍で参戦も、一色(伊勢・志摩・丹後の守護大名)は、地元で細川系の若狭守護・武田信賢と戦争中で、「応仁の乱」では西軍に移った。かくして「頼助」は東軍、「牛」は西軍で対峙することになる。

 「応仁の乱」勃発。「牛」参加の一色軍に、東軍の細川・武田勢4千人が攻め込んだ。「牛」は一色大将を馬に乗せて脱出し、山名宗全の館に逃げ込む。小康状態を経て、西国の雄・大内政弘が西軍加入で上洛。火に油を注ぐ激戦で、京都は半月で名刹全焼失。西軍は勢いに乗って東軍支配の相国寺、花の御所を猛攻。これが「相国寺合戦」。同寺は七重塔一基を残して焼失。

 翌日、窮地の東軍は畠山政長率いる3千名を中心にした1万余の軍勢で、西軍を押し返す。この戦いで際立ったのが「応仁の乱」初登場の「足軽集団」だった。彼らは出自無関係の土一揆勢の同じ階層。戦術も甲冑もなしで疾風のように神出鬼没。権威も命令も無視で掠奪・放火・寝返り~何でもありの無頼集団。

 文明3年(1471)、「牛」は戦場転々とする間に早や41歳。「船岡山の戦」で「牛」の戦術に、京極持清の傭兵らの退路が断たれ、その中で「頼助」が果敢に戦っていたが矢が胸を射った。「牛」と瓜二つの「頼助」。親子の名乗りを交わすも「頼助」の意識は薄い。

 ここで「牛」は大義名分のない戦いの虚しさに、一色の軍勢から離れて宇野屋に戻る決心をする。我が子を戸板に乗せ、武具を脱ぎ、口に矢を銜える古式にのっとった戦場退却の形で帰還。介抱虚しく「頼助」死去。やがて「もも」夫妻も無頼の足軽らに家を焼かれ殺されたと知る。(作家は「応仁の乱」史実にフィクションを上手にのせて描いている)

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