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応仁の乱(9)銀閣寺と東求堂 [日本史系]

tokyudo_1.jpg 文明13年(1481)末、46歳の義政は近習を連れて御所を出た。天皇が驚き帰京を命じるも無視。剃髪して僧侶・隠棲の準備を開始。彼は31歳の時に東山に隠居所をと定めているも「応仁の乱」で叶わず。15年を経ての実行。

 翌14年、資金に苦労しつつ造営開始。最初に「常御所(つねのごしょ)」(南北7間、東西6間。6畳の寝所、その東側に昼御座所、北東に4畳の書院他)を完成。文明17年(1485)50歳で臨済宗(禅宗)の僧として出家。東山山荘で当時の建物現存は銀閣寺と東求堂のみ。河合著参考に両建物中心に記す。

 常御所に住みつつ、まずは「西指庵(せいしあん、禅室)」と「東求堂(とうぐどう)」を建てた。文明17年4月に月待山中腹に「西指庵」完成で、ここに移り住む。寝所に蚊帳も用意。安静と呼ばれた書院もあり。書棚に中国禅僧の伝記や語録などの書籍があって、臨済宗・禅室的な雰囲気。

 「東求堂」は持仏堂で浄土宗風建物。四つの部屋があり、仏間は板の間で阿弥陀三尊を安置。障子に阿弥陀を囲繞する十僧の図を狩野正信に描かせた。higasiyama_1.jpg北東隅が四畳半の書院、名は「同仁斎」。北側に出文机(付書院)と違棚。出文机に漢詩文中心の書籍、硯、筆架、水入れ。違棚には茶道具類。義政はこの「西指庵」と「東求堂」での生活に重点をおいたらしい。前述の外山英策著『室町時代庭園史』では、~「同仁斎は後世に茶室の濫觴(らんしょう)と称されて甚だ著名だが、書斎であって茶室ではない」と記している。

 文明19年に「会所」竣工。会所は政治事の談合場所だが、義政の会所は同趣味の者と絵画鑑賞、茶の湯、連歌を楽しむ場所になった。長亨2年(1488)から観音堂(銀閣)普請開始も、義政はその2年後の55歳で亡くなって死後に完成。遺命で禅寺「慈照寺」として奉献。同建物は下層が書院造の心空殿。上層が禅宗造りの潮音閣。

 西指庵(臨済宗・禅宗)と東求堂(浄土宗)、慈照寺も下層(書院造)と上層(禅宗)、漢詩(禅宗)と和歌(王朝)を楽しんだ。これら融合一致が「東山文化」と推測できるが、この辺は後述です。

 庭園は臨済宗の禅僧・夢窓疎石による西芳寺庭園(苔寺)が参考にされた。外山著には苔寺の西來堂⇒東求堂、指東庵⇒西指庵、湘南亭⇒釣秋亭、合同船⇒夜泊船などの名称からも西芳寺を模した証拠と指摘していた。

 写真上は外山英策著『室町時代の庭園史』(国会図書館デジタルコレクション)より東求堂写真と河合正治著『足利義政と東山文化』

 追記:飛田範夫『庭園の中世史』冒頭で、義政は東山山荘の庭園を造営した際に、しばしば寺院や公家から樹木と庭石の掠奪を行っている。たとえば~ と具体例を書いている。

 ★ツバメ初認:3月27日。3日前、ベランダから箱根山の3、4分咲きソメイヨシノを眺めていたら、眼前を一羽のツバメがツッ~と横切った。「こんなに早いとは」。間違いと思ったが、もう一度眼前を横切った。

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