SSブログ

応仁の乱(10)立花と茶の湯の誕生 [日本史系]

sendansyo2_1.jpg 義政の建物、庭の次は「立花」について。キーン著を要約。書院造りには、絵を飾る壁の空間基部の役目、かつ美術品設置の〝押板〟が設けられた。横幅が長いのは、三幅対の掛物(本来は仏画ゆえ本尊、左右に來持菩薩の脇絵)を横に並べるため。その前方に花瓶の花、香炉、燭台(カット参照)。この形が、後に美術品を飾る枠組みとして垂直の柱を設けた「床の間」になる。

 花瓶は昔から神仏に花を供えるためにあったが、義政の時代に花瓶の花の供え方が芸術一形式になって行く。当初は絵との調和を考慮しての立花(りっか)。文明8年(1476)に義政が参内の際に、立阿弥に牡丹を〝立てる〟よう命じた。その技術と風情が気に入った義政が、以後も彼に「立花」を命じ、立阿弥が〝華道家〟として名声を得た。

 その立花様式は、それより約10年前の寛正3年(1462)に池坊専慶が創案。専慶は七本の枝を仏教的解釈で説明。遊びの「連歌」が規範を得たと同じように、専慶もまた「立花」に規範を与えて気品と重要性を得た。キーン著の記述は概ねそこまで~。

sendensyo3_1.jpg ここは小生を「応仁の乱」へ誘ってくれた澤田ふじ子『花僧~池坊専応の生涯』(専慶は流祖、専応は理論確立)を読みたい。ちなみに現・池坊専永の妻が、先日の「貴乃花騒動」で話題の池坊保子。イヤだねぇ~。そのイメージ払拭にも是非読んでおきたい。また小生は鈴木大拙著『禅と日本文化』の「わび・さび」の説明が「華道」にも通じると納得させられた。

 次は「茶の湯」について。キーン著は、義政の保護育成と知られ、日本的なものとして最も発達普及したのが「茶の湯」と紹介。そこから茶の歴史が説明されるが、ここは鈴木大拙著を参考にする。

 茶の種を中国から持ち帰って、禅院の庭で栽培したのが栄西法師。茶に関する書『喫茶養成記』を、病身中の将軍源実朝に献上。茶の湯の作法を考えたのが半世紀後の大應国師。その後に大徳寺の一休和尚が、弟子の珠光に教え、彼が茶道として確立して創始者になった。珠光が義政に教え、後に紹鷗から千利休へ。利休が今日の茶の湯を確立した。

 キーン著に戻る。義政当初の時代は、派手で珍奇な「婆沙羅」趣味で、贅沢な茶会が行われていたが、次第に飾り気のない小さな部屋で、主人と数人の友人が茶を飲みつつ静かに語り合う形に変化。その場が上記説明の押板のある書院造りの部屋=茶室になった。そこで一種威厳のある振舞で茶を飲み、侘茶の茶礼が始まり、次第に様式化されて行った。技巧を隠した技巧の美。主人と客の対応も、敬意と親密さの両方を伝えるための型が生まれた。

 小生、子供時分に母の「古流」(華道)と「江戸千家」(茶道)の暮しがあった。その関連記述を改めて読むのも妙な感がするも、ここから核心に入るのでいったん区切る。写真のカットは『仙伝沙』(室町時代の立花3伝書をまとめた江戸初期刊の書。国会図書館デジタルコレクション)より。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。