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応仁の乱(11)茶の湯の「さび・さび」 [日本史系]

rikyu2_1.jpg キーン著の続き。「茶湯」なる語は奈良興福寺の経覚の日乗『経覚私要抄』(文明元年・1469)に初登場。茶道創出の功績は、義政の同朋衆・能阿弥によるところ大。能阿弥は中国絵画鑑定・絵師だが連歌、書、香も名手。

 千利休の高弟による『山上宗二記』に、能阿弥が義政に茶の湯への興味を抱かせとあるとか。~能阿弥は30年余も茶の湯に打込んできた奈良称名寺の村田珠光(じゅこう)について義政に話し、己が珠光から学んだ茶の湯の秘伝、茶道具知識を言上。よって義政は珠光を茶の師匠にした。一説には、この話は山本宗二が珠光流宣伝の創作で、実際は義政の茶の師匠は能阿弥で、彼こそが茶道の創設者に匹敵する~の指摘もあるとか。

 キーン著はまた、珠光が弟子で連歌師の古市澄胤(ちゅいん)に宛てた茶の湯心得の書簡に「和漢の境地を融合させる」「連歌の枯れ衰えて、冷えびえしているのがよい~は、茶の湯の行き着くところもそうあるべき」。茶の湯の日本的はものの説明に「冷えた・枯れた・痩せた」なる連歌評の語彙を使っていること。また「心の師とはなるがよい。しかし、心を師にはするな」(心を導こうと務めるのはよいが、心に従ってのみ進むのはよくない)などとしたためてあったと説明。小生、「心の師とは~」に思わず「反・陽明学じゃないか」と膝を打った。

 キーン著は、ゆえに「連歌と茶の湯は並行して発展してきた」と指摘。その類似性を①共に仲間の参加を必要とする。②殺伐とした世にあって、人間の密接な交わりの温かさ満ちる場。③どちらにも規則が多い。④直接・間接的に他芸術に影響を与えてきた(建築、陶芸など)。⑤後世に末永く続いて日本人のこころになった(連歌は姿を消したが、その第一句が俳句になった)。鈴木大拙は「南方録」に茶の目的は小規模ならが此世に清浄無垢の仏土を実現し。一時的の集り、少数の人ながら。茲に理想社会を作ることだという一説があると紹介している。

 キーン著の最終章は「晩年の義政」。彼は生涯を通じて禅仏教へ深い信仰を持った。少年期からの禅僧との交わり。禅の深淵探求はせずも、禅によって形に現れた建築、庭園、生け花、茶の湯を愛し、禅寺を庇護(禅宗は足利将軍家の宗旨)、そして自らも禅僧として出家した。

 一方、義政は20代前半から最期まで観音信仰を捨てず。阿弥陀仏に特別な敬意を払っていた。この乱世での自力は難しく、阿弥陀仏の慈悲(他力)にすがる他はなかったと指摘。法然、親鸞、一遍から義政の時代は蓮如で「念仏は救いを求めるのではなく、阿弥陀の慈悲への感謝」という教えの「浄土真宗」普及で本山本願寺を再興した。義政の浄土信仰は法然の流れを汲む宮廷階級趣味にも合った宗教儀式を行い、また蓮如の濁世にあって「諸法、諸宗全く誹謗すべからざること」の幅広い心を持ったと解説。

 カットの千利休像(国会図書館デジタルコレクション「肖像」明治24年刊より)には、藤原家隆の「花を見て(花をのみ)待らん人に(待つらむ人に)山里の雪間の草の春を見せばや」が書かれている。鈴木大拙は「見る人ならば、荒涼たる堆雪の下に春の芽ざしをも容易に認めよう」の意で、そこに茶の湯の「さび・さび」があると解説していた。

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