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応仁の乱(13)遊びにて波を描く [スケッチ・美術系]

ohnami2_1.jpg 前回、鈴木大拙の「日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した〝一角〟様式を採用して、日本画の〝減筆體〟伝統と結び付けた点である」を紹介した。そこで馬遠の絵「黄河逆流」を見たら、ちょっと固まってしまった。

 小生は、今まで北斎「神奈川沖浪裏」などに見る〝波の描き方〟は、いわゆる〝雪村浪〟(雪村周継)からと思っていたが、馬遠「黄河逆流」の波の描き方がモロそれで、その描き方は〝雪村浪〟以前からあったんだと認識させられた。

 馬遠の生没年は不詳も、南宋の宮廷画家らしく、それならば日本の鎌倉時代辺りの活躍だろう。足利義政時代の遣明船は「応仁の乱」前後に各2回ずつで、相当に大掛かりに中国書画の蒐集をしたらしい。また遣明船には雪舟も乗っていた。ゆえに当時の日本の画僧らが、馬遠の波の表現を知っていてもおかしくない。雪舟は中国で馬遠の絵を見たかもしれない。

 そう思って雪舟の絵を見れば、やはり「鎮田爆図」に同じような波あり。狩野正信の子・元信「四季花鳥図」の滝の波もそうだった。ならば室町時代後期~戦国時代の主に東国で活躍の画僧・雪村周継「波濤図」などの波の描き方はオリジナルではなく、馬遠から影響されたと容易に推測される。

 それが江戸初期の俵屋宗達「雲竜図屏風」、江戸中期の尾形光琳「波濤図屏風」、江戸後期の酒井抱一「波図屏風」、そして北斎の波へ引き継がれ~、と各人の〝波の表現〟例を挙げて系譜的に説明しても面白そうだが、素人が出しゃばることではなかろう。

 そこで昨年秋に、水彩で伊豆大島の大岩に打ち砕け散る大波を描いたが、その絵の上からボールペンで彼らが描いた波表現をややオーバーに描き足して遊んでみた。さて、これに「北斎ブルー」で着色してみましょうか~。

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