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応仁の乱(12)雪舟と水墨画 [日本史系]

sessyu1.jpg 東山文化の絵画について。キーン著には「足利将軍らは、文化面では公家階級に劣るも、こと中国の書画骨董は公家階級より精通し、より熱心だった」と記していた。

 義政及び前将軍らが蒐集した中国美術は大規模。義教・義政時代の将軍家所有の美術品管理役を務めたのは能阿弥、芸阿弥、千阿弥、調阿弥。能阿弥が編纂した『御物御画目録』には山水画74幅、花鳥画91幅、道釈人物画114幅で計279幅が記録。宋・元の名手30名らの名作中心で、二流作は売却とか。

 義政の鑑識眼も当代随一。これら絵は主に「応仁の乱」前の宝徳3年(1451)と寛正5年(1464)。「応仁の乱」後の文明8年(1476)と文明15年(1488)の遣明船で入手。寛正5年の船には朱子学者・桂庵玄樹、画僧・雪舟も乗っていた。

 水墨画は老子「五色は人の目をして盲ならしむ」(本来は贅沢に慣れる、様々な誘惑に乱される)、同時に墨一色で描かれた絵にすべての色彩が含まれる、という考えが反映。日本の絵師らも、そんな中国名画の模倣から次第に自分の水墨画を築いていった。

daruma.jpg_1.jpg 日本最初の水墨画は、主に画僧による宗教色濃い作品が主。代表的画僧は如拙(狩野派の源)。如拙弟子で将軍家の御用画家が天章周文。そして東山時代の最も有名な画僧は雪舟。雪舟は相国寺で禅修業と同時に周文に絵を習い、48歳で渡明。2年後に帰国だが戦乱の京都を避けて周防の大内氏、豊後の大友氏の2大名の庇護を受けて独自世界を構築した。

 義政は雪舟に東山山荘に絵を描くよう依頼も、彼は自分に代わって狩野正信(既にお抱え絵師になっていたのを知らず)を推薦。また同時代では一休禅師の肖像を描いた弟子の墨斎。義政の肖像を描いた土佐光信。蔭涼軒や高倉御所の絵を描いた御用絵師・小栗宗湛らがいた。

 ここでまた鈴木大拙に登場願おう。大拙は日本人の芸術的才能の著しい特色の一つは、南宋の画家・馬遠に源を発した「一角」様式の採用。これと日本画の「減筆體」と云う少ない描線、筆触で物の形を表わす伝統と結びつけたこと。それが禅の精神にも一致で「わび・さび」に通じた。

 その説明で前回紹介の藤原家隆「花をのみ待つらん人に~」の歌に加えて、藤原定家「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮」も挙げて、華美なものを超越した枯淡・幽寂の美を説明。即ち「一則多、多則一」(華厳経)、「空即是色、色即是空」(般若経)だと説明。

 カットは「新古画粋・第1編(雪舟)」(大正8年刊。国会図書館デジタルコレクションより)で、上は雪舟肖像画、下は77歳筆の「彗可断臂図」(えかだんぴず)。

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