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戸山荘①尾張藩下屋敷とは [大久保・戸山ヶ原伝説]

hakoneyama.jpg 過日、新宿歴史博物館で「尾張藩下屋敷・戸山荘」の3回講座を受講した。小生の部屋から、かつての戸山荘の「箱根山」が見える。16年前のHPで戸山荘について、また大田南畝が写本した久世舎善『戸山御庭記』(享和20年)をアップしたことがある(写真はその時の箱根山)。

 今回は東山文化の庭園もお勉強した。それらを記念して『東京市史稿 遊園編」より『和田戸山御成記』をアップしてみようと思い立った。時は「寛政の改革」の寛政5年、11代将軍家斉20歳が、高田で放鷹の際に戸山荘へ立ち寄った際の御手先頭・三上季寛(600石旗本)による記録。なお三上季寛で検索すれば〝鬼平〟モデル・長谷川宣以8年後の「火付盗賊改方頭」180代目(寛政9~10年)でヒット。多分同一人物だろう。

 小野武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』は、同日に御小姓・佐野義行の随行記『江戸の春』を中心に、三上季寛の文章も参考に戸山荘を紹介だったが、小生は逆に三上季寛『和田戸山御成記』を中心に、小野著を参考に読み込んでみたい。

toyamaso2_1_1.jpg まずその前に、簡単に戸山荘概要。江戸時代に現・戸山町1~3丁目一帯に尾張藩徳川家の下屋敷「戸山荘」があった。広さ13万6千坪(約43万㎡)。東京ドーム9個分。浜離宮庭園20万㎡の倍の広さ。江戸大名屋敷の随一の池泉回遊庭園。

 現地図で説明すれば明治通り、諏訪通り、大久保通りに囲まれた一帯。今は同地に新宿区立西早稲田中学、都立戸山高等学校、学習院女子大・中・高校、東京都心身障害福祉センター、戸山公園(箱根山地区)、戸山ハイツ、一般住宅、国立国際医療センター、国立感染症研究所、早大一部を含んだ地域。ここからもその広さが伺えよう。

 戸山荘の造営は、尾張藩2代目藩主光友が綱誠に家督を譲った寛文9年(1669)から24年間にわたって行われた。池泉は約2万坪。その土で築かれたのが玉円峰(箱根山)。寺社多数、遊びの町「小田原宿」(36軒の町屋)、25景の名勝ポイント(儒者・細井徳民による命名。その意でも禅師・夢窓疎石の庭とは趣旨が違う)、また田畑、花卉栽培場もあたったそうな。

 尾張徳川家は庭園好き、無関心の藩主さまざまだったが、第15代将軍家斉(いえなり)は4回も訪れて「すべての天下の園池はまさにこの荘をもって第一とすべし」と言ったとか。明治になって陸軍が接収。戦後に上記諸施設や住宅が建ち、一部が公園として残されて「箱根山」など当時の名残が多く残されている。

 発掘調査も断続的に行われている。戸山荘以前の地層から弥生式土器が出土。早大文学部学生会館建築前の発掘では「龍門滝」の石組発掘(この石組は今、名古屋「徳川園」で再現されている)。最近でも池の土留め、街道跡、生活品、花卉栽培場の跡、近衛騎兵連隊遺構などの発掘調査が行われている。

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