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戸山荘②家斉、穴八幡放生寺から御成門へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

onarimon_1.jpg 以下『東京市史稿・遊園篇』(珍しい〝くずし字活字〟交じりの昭和4年刊)より、寛政5年の11代将軍家斉(20歳・いえなり)が戸山荘(尾張藩9代藩主・宗睦)を楽しんだ際の三上季寛(御手先頭600石)による『和田戸山御成記』を読んで行きます。読み易く濁点を付け、固有名称は「」で、小生の勝手解釈を( )で、誤り多々も少しずつ解読です。絵図は「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」(国会図書館デジタルコレクション)より部分アップして行きます。

 けふは弥生下の三日(寛政五年三月の二十三日)なりけるに、妻こふきゝす(雉♂)のありかをもとめ、又のこんの鴈(残っている雁)など獲給はんとて、辰の時のはじめ(午前七時頃か)西の御門の拮橋(西拮橋・にしはねばし)より出たゝせ玉ふに、きのふまでは春雨こまやかに事ふりたりけるに、けふは雨もふらずいとゞ(いっそう)こゝろものどやかなり。まづ穴八幡放生寺といへる御寺に入らせ給ふ。したがひ奉る人々に物たうべ(食ぶ=丁寧語)などせさせとて、しばしやすらはせ給ふと、よけの告(禍除け)ありて、御むつましの(慕わしい)とふとき(尊き)かの尾張大納言(宗睦)の山荘和田の戸山に入らで玉はんとす。

kirieana_1.jpg <現地図で説明すれば、皇居の西拮橋~武道館の田安門~早稲田通りを神楽坂下から牛込~高野馬場か。〝鷹狩りのついでに寄る〟はあくまでも建前。この頃の家斉はすでに松平定信に嫌気充分で(4ヶ月後に定信罷免)、定信が江戸に居ぬ間の戸山荘訪問は、かつて定信の老中首座推薦の宗睦も、すでに反定信で動いていての極秘会談があったかも知れない。そこを探るのも面白そうだが、ここはまぁ、政治抜きで戸山荘を楽しみましょう>

 まづ御庭のかこひなんどつねよりもあらたに(囲いなんど常よりも新たに)二重のかまへ内の門をば「神明車力」のかどと(洒落て?)名づけ、茅もてふけるもさわやかにこそ、左り右り(みぎり)に白と藍との布ませ(仕切り)の幕張わたしたり。扨(さて)門のうちへ入らせ給へば、左の方に見渡されたるは所謂(いわゆる)大原とてかぎりもなき廣芝原なり。右の方の小き岳には神明のミやしろ(御社)神さびわたり(万葉集にある語。神々しさが広がって)、木ずえ高く生茂(はえしげ)りて、いとどふとし(さらにしっかりしている)。古道の跡とて川越道鎌倉道とて二筋の道あり。かまくら海道とて右りの方へ入らせ給ふ。からはらの(傍らの)六社の神を崇め奉れり。新たに宮造りしてしづめ(鎮め)祭れり。又こくらき(小暗き)森の内に釈迦堂ものさびしげにたてる。右に稲荷社ふり(古り)にしさまなり。

gakusyuinjyos_1.jpg <絵図に川越街道と鎌倉道の分岐「古道岐」の名あり。その先に広大庭内に散在の小祠を集めた「六社」。西側に二重塔の「釈迦堂」、左は「稲荷社」。その45年後の「江戸切絵図」を見れば穴八幡、別当放生寺の位置は当時から今も変わっていない。その道(現・諏訪通り)を西へ行けば左に現・学習院女子大の北門辺り(写真)に「御成門(神明車力)」があった> 『和田戸山御成記』〈1)

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