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戸山荘③「山里御数寄屋」の逸品の数々 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yamazatosukiya_1.jpg 山をくだりて松楓樅など生茂し、あたりに一棟作りし萱の屋あり。外のさまにかはりて数寄(すき・風流)をつくし、棟梁(むねはり)なんともふとき(りっぱな)伽藍のごとく、垂木のミな竹にて言葉にも盡しがたし。ふしぶし多くありていとたふとく拝し奉りける。御床(床の間)には島物とやらんの瓶に、夏菊の花をいとたへたへしくも(途切れ途切れに)入られける。書院のかざりには夢の浮橋といへる彼御家に名たる盆石を置れける。いつの世よりか伝はりけん。古めかしくおかしくあはれげにまたなき御宝とこぞ思ひやられ侍し。

<釈迦堂(二重の塔)右の「山里御数寄屋(おすきや)」(茶室)に尾張家の御宝が置かれて、それら説明が延々と続く。著者・三上に限らず当時の上級武士らには茶道の嗜みがあったと伺える。これら御宝は今も名古屋の徳川美術館にあるかも知れない。>

 御釜責細のさまにて浄味(信長に仕えた京釜師)の作。紹鷗棚(炉用の棚)には御かざりの御天目(茶碗)あらたに造らせられけん。今焼の瀬戸、杉の木地の御蓋、御臺は朱色、御茶入はもろこし(中国)とり伝へし御壺なり。四方盆靑貝、御水差青磁、茶釜置はいま渡りの呉洲、御茶杓利休の作なり。おほん(御)水屋にはもろこしの炭斗菜籠(すみとりさいろう=籠製の炭取)、香合(香の容器)跤趾(こうし焼き?)ミつ羽(茶道具の三羽の羽箒)はちとせ(千歳)を祝ふて置せ給ふ。南蛮の灰鉢には老松となんいへる名におふ薄茶器を取そへ、御茶碗は是もあらたに造られし唐津の産なり。古田綾部の御茶杓を錺られし。誠や世に茶敷寄く人々を此御数寄屋にあつめて目を悦ばしめたき事になん。御うやまひの至りにや。御棚の四方を羅にてかこひ、御釜もともに大納言ミづから〆(標)をぞ懸られし。

 夫より山を下りに石をもて沓(くつ)のたよりにそま(杣)ふけ(深け)られし。此石なんとも世に似ぬさまなりしゆへにとび侍りければ、尾州の産する所にこそありけれ。垣根は黒木(クロモジ属の落葉低木の皮つき丸太)もて造り、わらび縄(蕨根の繊維の縄)結びめ長くたれしもいはんかたなく(何とも言いようがない)わびしげなり。手水石の姿又なく面白く珍らしけなり。山を逆さまに返したるやうに覚ゆるもおかし。

fujitogakusyuin_1.jpg 爰を下り盡くして「吟涼橋」は芝萩などもてつくれる橋なり。左りの入口の汀には、むらさきと白き藤の打まじりて盛なりけり。右りの方を見やれば、つる亀島とて万代のためし盡せぬ松竹梅柏などいかにも小さく造植置れしも、年ふりたれば(年を経れば)おのづからさまに見ゆるもめでたし。

 <絵図は釈迦堂(二重塔)の隣に山里御数寄屋。石伝いに下ると小さな入江に吟涼橋。西山ガラシャの小説『公方様のお通り抜け』では〝芝萩などでつくれる橋〟を〝柴を萩の蔓で編み込んだ吊り橋〟とあってアレッです。「柴橋=庭園の池に架け渡された柴などの雑木で作った橋」。絵図も吊り橋ではなく、新宿歴史博物館刊チラシには(元・王子土橋)ともある。柴(雑木)を蔦で結わえ、軽く土で覆った小橋が正しいだろう。「随柳亭」先の池には鶴・亀の島がある。これは夢窓疎石からの池の定番。さて今も学習院下辺りに見事な藤棚が咲き誇っていた。そこでアッと気付いた。将軍が御成りの3月23日は旧暦で、現4月27日。まさに今頃だったと。写真の藤棚の奥は現・学習院女子。千駄ヶ谷の秩父宮ラグビー場の地にあったが空襲で焼失。昭和24・25日に戸山町へ移転>。『和田戸山御成記』(2)

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