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戸山荘④ 随柳亭~行者堂~文殊堂へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

zuiyouteikaramonjyu_1.jpg かたはらに老木の柳の木ずえ(梢)高く風になびき、緑も深き江にそふたる一ツのおほん(御)屋作り。是をなん「随柳亭」<絵図:左下>と名付て、御とのゝ(殿の)画はかの御家にて養壽(尾張藩御用絵師・神谷養壽)とかやいへるか。手を盡してぞえがきし墨絵の山水にこそ。所々砂壁なと取合て、かりそめのおぼん(御)住居の様なり。御縁(縁側)には緋の氈(かも・せん=毛氈)を敷わたし、御床には范安仁か藻に魚の絵いける(活ける)がごとし(范安仁=没骨描法の藻魚図が有名)。世に有所の写しなどもかねて見しが、似もにぬ(似るも似ぬ)ものなり。藻と魚とをそのまゝにとり出で、帛(ハク・絹)におしあてゝ見る心地にこそ。

zuiryutei_1.jpg 小卓靑貝、御香炉紫銅のおし鳥つきづきしく(しっくりしている)ぞ見べし。書院の床には明〇とかや、さゝやかなる唐銅のふくべのかたちなるに、いかにも立花のさまにて、松・尺南花(シャクナゲ)・まるめろ(バラ科の落葉高木。セイヨウカリン)・杜若(カキツバタ)・金銀花(スイカズラ)・さつき・しやか(アメマ科)をぞ立かれける。かく立花しける事、だれだれもいまだ見ぬ事とて、いとめであへりし(愛で饗りし)。ふた間三間隔て、御釜子其外の御調度まで取そへてかざらせ給いける。其余の御間には、釜なんと二ツ三ツすへられ、茶のぐ(具)など数多ありし。

<将軍家斉の御成は、新暦で今頃。戸山公園(箱根山地区)を散策すれば上記と同じ花々が咲き誇っている。「随柳亭」と「養老泉」の間辺りのシャクヤクも満開だった>

 是は供奉の人々に給はらんための御もふけ(設け)ならんかし(~なのだろうよ)。此殿にて御わりこなとき(?)こしめした(越しめして=丁寧語)、御供の人々にも給られかしと有しに。みなみな後の事の思ひやられて、しばしと申あへりしかば。やがてとく(着く、到着する)宿内といへる御やとりにぞおくり遺しける。<座敷に将軍の座布団もあり、供の者にも握飯などの接待があるも、皆は庭の前途への心配があったので、それを断って宿内といへる御やどりへ先送りした~の意)

koujicyu_1.jpg 此所を出たゝせ玉ひて、「役の行者堂」、古ひわたりし様なり。傍に鈴木三郎か(義経の家臣・鈴木三郎か)の笈(おい=修験者が背負う籠)螺貝なりといにしより云ならはし伝はりしなと聞へし。「王子権現」に「廬山そさんし(盧山寺)」など過行ほどに、「文殊の御堂」左の山におはします。石の階を登りて左り右りに石もて柱の様したるものぞ有ける。これもろこしの花表(中国の鳥居)などいへるものならんかし。すべて此御庭の仏も石も垣も塔も皆ももとせ(百年)あまり五十年も過にたれば、古みわたりて殊勝さいわんかたもなし。

<一行は池伝い随柳亭~吟涼橋~行者堂~王子権現(池の中に鳥居あり)~廬山寺~文珠堂へ。絵図下は「随柳亭」(「尾張公戸山庭園」より)。写真は「文殊堂」があった辺り。そこは目下「メゾンドール早稲田」(池側の国家公務員宿舎を買収して)の建替工事中(写真下)。その工事前発掘で池の土留め、古道岐(園路)跡、中国系の陶磁器類・煙管・擂鉢などが出土。また池跡からは明治9年頃に試射された米国銃の弾丸、英国銃の薬莢が出土。その上の地からは花卉栽培跡などが確認・調べられたらしい>『和田戸山御成記』(3)

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