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戸山荘⑤龍門瀧のドッキリ仕掛け [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnotaki_1.jpg さて「鳴鳳渓」とて深き谷の有けるを伝ひ伝ひて下りぬ。爰は大きなる竹のはやし立つづきたるに、木も交りてをくらく(手許も暗く)物すごきさま也。木の根竹の枝などに取りつき下りけるに。いとはやき流れありて、ほとばしる水のするどけなるなんどと詠め侍りける。右の方の「龍門橋」より流れ出る瀧つせ(瀧つ瀬=激流、急流)のさま、誠に白浪高く岩角にあたりて、玉ちるけしき。画(えが)くとも及びがたく、又かたるにも聞人よも誠とも思はし。瀧の音山岳に響き、さゝやけども聞へず。しばしの内に、はじめ渡りし石つたひも、みな白浪の底にしづみて物すさまじあやうし(凄まじ危うし)などいゝて、向ざま(ざま=方向や向きを表す接尾語)の岩のかけ道などやうやうにつたひのぼりて見侍るに、竹林のもとに草といふものは尋ぬれどもなきまでに塵はらひ清められし事のとふとさと感じぬ。此水はわざとたゝへて置てほどよしとて關の板をはづして落し懸たる瀧にて有けると後で聞へ侍りし。

 <戸山荘を代表する龍門瀧。現・早大学生会館建設前の平成10・11年発掘で瀧の石組が出土。その石組が名古屋・徳川公園で再現と知り、小生は名古屋での仕事の際に二度ほど訪ね見たことがある。サイト「徳川園」の(散策案内)クリックで瀧の四季写真がアップされている。

ryumonotaki_1.jpg 左の本の表紙は、その石組と絵。新宿歴史博物館のマップ説明文に、~三上季寛の見聞記として「一行が飛び石をつたって対岸に渡ったのを見計らい、上流の堰板を外し、飛び石を水没させ驚かせるという趣旨の舞台となった場所です」と記されているが、それがこの全文です。前述の西山ガラシャ氏小説『公方様のお通り抜け』では、この瀧の石組、細工、堰板を外すタイミングの実験・本番などが面白おかしく描かれていた。58年前の吉春の「花見の宴」に従った久世舎善をはじめ他の戸山記には〝この瀧のドッキリ仕掛け〟の記述はなく、家斉御成に特別に造られた仕掛けと推測される> 

 右の「竹猗門(ちくいもん)」にはとふとき額あり(尊き2代藩主・光友卿の筆の額)。これぞ君子の出入らせ給ふならん。左の垣根にそふてのぼり行に、右はそことしもなき山路なるか。松楓生茂りてみどり深く、芝きよけ(清げ)に青ミ渡りたるに、紅の躑躅のこく薄き色々ありて藪もわきかたかりけらし(わかりにくいようだ)。高さは丈にも餘りしなんと珍らし。木立しげからず木高からずやすらにふりありて(様子があって)、めなれぬ風情なるか。『和田戸山御成記』(4)

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