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戸山荘⑥享保&寛政の改革 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnnotaki.jpg ここでちょっと脱線。寛政5年(1793)3月の11代将軍家斉(いえなり)の「和田戸山御成記」が進行中だが、時の尾張藩主は9代徳川宗親(むねちか)。そこで7代藩主・徳川宗春「花見の宴」での「龍門の瀧」はどう紹介されているのだろうかと久世舎善記『戸山御庭記』を読んだ。

kubousama_1.jpg そこでハッと記付いた。吉春と云えば8代将軍吉宗「享保の改革」に逆らった藩主。吉春『恩知政要』(享保17年・1732)は、吉宗の厳しい質素倹約では逆に経済が停滞し、庶民生活・文化も阻害すると説いた。芝居興行の推進(その結果名古屋は〝芸処〟になる)、遊郭営業も許可、盆踊りも盛大に行われ、自らも派手な衣装で練り歩いた。

 享保20年に吉原大夫・春日野を落籍して戸山荘に迎え、華々しく「花見の宴」を展開。清水義範の小説『尾張春風伝』では、荘内の小田原宿を模した町屋で、吉春は瓦版売り、春日野は大根売りの田舎娘に扮して、それは楽しく盛り上がった様子が描かれていた。

 だが4年後の元文4年(1739)、吉宗はついに吉春に謹慎蟄居を命じた。ちなみに吉春に仕えた尾張藩御用人の一人が『鶉衣』の横井也有。吉春の隠居と同時に〝官路の険難しのぎ尽くて〟彼は隠棲して同書を著わした。

 さて吉宗は時代劇とは違って農民に実質2倍の増税、貧民層への差別政策も行ったとか。その吉宗の子・家重が9代将軍。健康芳しくなく田沼意次が献身的に補佐。10代将軍が家治で田沼の老中政治が始まった。家治の子が18歳没で、一橋家の家斉が養子になって15歳で11代将軍になった。

soudaigawa_1.jpg 家斉の実父・一橋治斉が、田沼追放と松平定信の老中首席を画策。尾張藩主・宗睦も定信を推薦した。だが定信の偏執的とも云える「寛政の改革」施策の数々・姿勢に、家斉は成長するに従って嫌悪感を抱き出した。独裁化する定信に、老中らにも反定信派が形成された。そんな折に定信は外国圧力に備えるべく伊豆・相模視察。その最中に行われたのが家斉の「戸山荘御成」だった。そこに宗睦が居ないワケもなく密談もあったと推測するのは当然のことだろう。案の状、4ヶ月後に松平定信失脚。

 かくして「戸山荘」の裏に「享保の改革」や「寛政の改革」が透けて見えて來る。定信失脚に江戸庶民喝采の声が渦巻いた。その後の化政期(文化・化政時代)に江戸文化(町民文化)が一気に開花。ちなみに家斉は妻妾16名で子は55人。性(繁殖)も謳歌。

 かくして小生は「龍門瀧」の激しい瀧つせに、人間性謳歌の叫びを感じてしまうのだが、いかがだろうか。無論こんな指摘は誰もしていないが~。写真上は「絵巻・尾侯戸山苑図」より「龍門の瀧」(国会図書館デジタルコレクション)。写真中は西山ガラシャ『公方様のお通り抜け』表紙(徳川美術館所蔵を使用)。そして写真下は「龍門瀧」があった早稲田大学生会館辺り。

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